くうちゅうくらげ

-A Boys Named No.28-

8月の振り返り。

眠い…。目を閉じたら一瞬で冥界にいけるくらい眠い。でもここでなんか書いておかないと明日にはちんちんの話になってしまいそうので書いておくことにします。

 

で、今日も僕の話をします。

 

なんかねえ、人がわからないと書いてる意味ってそんなにないんですよね。読んでる意味もないと思う。それはというと僕がただ思っているだけであってほかの人のことは知らないんですけど、やっぱ僕自身「おまえが云ってることは信用するけどあいつが云うことは信用しねえ」みたいなタイプなんですよ。そういうのってあるじゃないですか。それはかわいい女の子に「かっこいいですね」って云われるのと曙のような女の子に「かっこいいですね」って云われるのじゃ気分違うよっていう次元の話でしかないんですが。

 

一応6月から割と更新率高めにがんばっているんですけど、それはなぜかというと、時間があるからです。あとは、話す相手がいねえっていうのも大いにあります。無駄に昔からこのブログを見ている人は知っていたり知っていなかったりするかもしれないですけど、僕は4月まで同居人がいたんですよ。4年間、同棲しててですねえ。コイツは中学からの同級生で、同居してから最初の2年以外はニートで、更に悲しいことに男で、家賃2年間10万以上僕が払い続けたよ…。

まあそれはいいとして、そんなこともあったので、4月までの僕はというと話し相手がいたんですね。たまに銭湯に行ってほかの人のちんちんを見たら、「あいつのちんちんでっかいなあ!」という相手がいたんですよ。僕はかなりゲンキンな人間なので、それを話せる相手がいるのといないのでは、だいぶ違うんです。

 

これは善し悪しの話じゃないんですけど、そんなわけで5月以降の僕はというとくだらないことですら話す相手がいなくなったので、「あいつのちんちんでっかいなあ!」程度のことでもブログに書いて発散する必要があるわけです。

まあ仕事やジャズで忙しすぎた時は同居人とすら話せるほどの時間こそなかったので、そん時はそん時で更新頻度が高かったんですけど。

孤独とかフラストレーションとかコンプレックスは、ブログ書いたり、哲学したりするのには、一番の原動力になると思います。ああ、曲描く時の原動力にもなったな。

 

そんな前置きは無視して、ああ、テーマの話でしたね。6月はなんか適当にとりあえず更新しておくかあ程度で、7月は割と「価値基準」ってやつに標準を絞ってました。で、8月は「生死」についてでした。個人的には「その程度」の話なのでどうでもいいですし、僕はテーマトークってあんま得意じゃないので逸れに逸れてるとは思うんですが。

まあこんなの切り取りの角度の話でしかなくて、たとえば「海」を取っても「夏」を取っても、海から価値基準に話を進めていくこともできれば、夏から生死に話を進めていくこともできるわけで。だからなんだって話ですよ。

 

で、8月の振り返りなので「生死」の話なんですけど、これおもしろいくらい死んだんですよ。しかも僕にとって大切な人に限って。

小学校の頃とても仲の良かったマサキという友人は柔道の合宿中に脳出血で死んで、僕のことを一番大事にしてくれたであろう爺ちゃんは眠るように死んで、わりと人生の理解者だった女友達は病気で死んで、そして幼少期から細々とイケナイ恋をしててもの凄く大好きだった従姉妹のねえちゃんはわりと最近自殺した。細かい話をすると致命的に長くなるのでここでは省く。

 

なんか不幸自慢話みたいになるのであんまりこういう話はしたくはないものの、同情してくれと云ってるのかと訊かれればそうではないと答える。

だって、他人には関係ないよな。これはとても他人には関係がない。だって僕だって飲み会とか行ってよくわからない人が「私の彼氏が死んじゃって」とか話し始められたら「めんどくさいこと話し始めましたなあ」って思いますよ、ふつうに。そこで「そんなおまえも含めて守ってやりたい」とか思えたなら、そりゃもうそいつは他人じゃないです。

 

人って死んでるんですわ。驚くべき早さで数え切れないような人々が、昨日も今日も今も明日も死んでるんですわ。その中には、消火活動で人助けようとして煙の中に入って殉職した消防士もいれば、足を滑らせて川に落ちてなんで死んだのって感じの人から、ライフ・イズ・ビューティフルみたいに子供守るために笑いながらナチスに殺されるお父さんもいたかもしんない、あれ泣ける。

まあ、とにかく有象無象がいる。んで、僕にとってはそれが身近な人が多かったってなだけの話で、その逆で、もしかしたら同窓会とかいってもほぼ全員健在な人もいるかもしんない。

 

でもそれだと少なくとも「僕」は、考えるわけです。ほかの人のことは知らないけど、「僕」は、考える。「なんでアイツが死んで、俺は死んでないんだ」ってことを。御年24歳にもなって過去の亡くし人を追って涙を流したりそろそろ死ぬかなと思うこと自体情けないの極みでしかないとは自覚していても、だ。

だって僕は今でも普通にあるんですよ。唐突に「しにてえ」って思うことが。今はこれでもまだまだマシな方ですけど、18歳~22歳の頃なんて毎日死に場所探してましたわ。だけどねえ、僕はなかなか死なないんです。これはなんでかっていうと、知ってるんですよね「俺は俺を絶対に殺さない」ってことを。

そりゃあね、今でも凄く未練染みたものがあってですよ。たとえば故郷に帰ったりすると「ここでねえちゃんと走ったなあ」とか「ここでじいちゃんがカブトムシ取ってくれたなあ」とか普通に思い出すんですよ。

 

ねえちゃんはマサキが死んだ後も、俺のこと励まして学校つれてってくれたりしてたし、「好き」っていう生臭い感情をお互いが理解するまでに結構時間かかったりもして。ジャズだってクラシックだって爺ちゃんに喜んで貰うために頑張ったんですよ。曲だってねえちゃんとか、大事な友達とかに理解して貰うために。野生のクマをはじめて見たときのねえちゃんのあの表情。もうとにかくあの日々のすべてが眩しすぎて。

当たり前のことですけど、哀しいですよ、その感情は非常に。そして当たり前のように「戻りてえなあ」と思う。でも、現実は「戻れない」なので、選択肢はもう「死ぬか」しかないわけだ。それに奴らは平気で夢にまで踏み込んでくるときやがる。

でも僕は死ぬわけにはいかないんですよ。だって世界はそれなりに美しいから。

 

なんだろう。これは不思議な気持ちで。そりゃもう一度爺ちゃんとカブトムシ取って、夜な夜な友達と語り合って、またねえちゃんと追いかけっことか出来て、キスできてセックスできりゃ最高なんですけど、あの人らのいないこの世界ってやつもまあそれなりに美しい時があるんですよ。圧倒的に醜い日が多かったとしても、だ。僕のことを大事にしてくれた人がもういなくても、なんだかそれなりに美しいと思える日々がある。僕の中に。

 

その具体象っていうのをつかむのがまだ難しいから、たびたびダークな気持ちにはなるけれども。僕は明日を生きる決心っていうのはずっと前からしてる。このままじゃあね、あの人らのこと大好きだった頃の僕に申し訳が立たないんですよ。どんなに詭弁を云ったって、そんなのは無駄でやっぱり僕はまだ世界に名残がある。

 

僕は、悲しかったはずの僕に、精一杯の愛情を込めて「生きてきて良かったんだ、クソくらえ」ってことをいつか絶対に云いたいんです。ねえちゃんが昔よく僕に云ってくれたんですよ。「そんなことで泣くな」「弱虫は嫌い」「あなたは絶対に強くなれる」って。そして何より「しななないで」って。だから、もうこれは僕との約束なんです。

 

足跡が残る雪の上とか、雲一つない空に浮かぶ飛行機雲とか、どこにもいけない芋虫とか、もうそういうすべてに感慨を感じる。そしてそれらを美しいと思える「可能性」がある。ジャズも然り。だから、まだ僕はそっちには行けない、と今日の所は云っておく。

可能性ってのはわりと残酷で、ある意味では「やっぱ死ぬか」という可能性もあるという裏側を持っている。でも、それを持っているとしても、だ。だから8月は生死について考えた。これについて8月中に答えが少し出たのは良かったと思う。

 

暑かったねえ。8月。9月のテーマはどうしようかな。とりあえずそろそろ例の試験の結果が出るので、それ次第な所もある。落ちれば10月に再チャレンジになるから鬱々とするだし、受かればちょいと明るいテーマになっていくかもしれない。

 

「かもしれない」、「かもしれない」、を繰り返して僕は生きていく。そして、その連続がいつか、僕を作るんだと思う。そして、僕の作った僕の人生は誰にも奪われない。もうだめだ寝る。