くうちゅうくらげ

-A Boys Named No.28-

It's easier to fake and smile and brag.

「自分のことしか考えていない」というのは一種の誉め言葉であったかもしれない。
また他の視点からは「自意識過剰」と捉えられていたのかもしれない。
どちらにしても「利己的」というのは自分でも身にしみてわかっていたことだった。
それを認めたくないにしても。

思えば小さなことから始まったのかもしれない。
小学校に上がる間もない頃から、映画が大好きだった。
それこそ、バットマンやスーパーマンなどのヒーローものが大好きだったガキだった。
「俺は世界を救う」そう思っていたのかもしれない。

さて、「利己的」という言葉を使った。
実際にこれはどういうものなんだろう。
「自分の利益のみを追求する」ということなのかもしれない。
「周りのことは考えない」ということなのかもしれない。
そこに「人を利用する、人を信じない」もセットになってくるのかもしれない。
とにかく自分はそういう人間だった。

それでも、自分を「利己的」だと思い始めるようになってからは少なくとも18歳になってからだ。
まず俺は行動に理由をつけるときはまず「自分」がはじめだった。

たとえば、喫煙は早かった。
15歳の夏からだろうか。
初めての高校の夏休みで友達と一緒に吸った覚えがあるから間違いないだろう。
刺青も早かった。
17歳の冬だ。
思えば、すべてに対して「相手にどう思われるのか」は欠如していたと思う。
「相手」というのは他人のことだ。
家族、当時の恋人や友達、その他の視点からすべてに対して欠如していた。
問題は「自分が自分でどう見えるか」が問題だったわけだ。

俺はハリウッドスターにあこがれていたし、今でもあこがれている。(もちろんなりたいともなれるとも思ってはいないが)
今思えば役者ではなくて、役どころに惹かれていたのだろう。
所謂“他人と違うもの”になってしまうフシもある。(これは狙っているわけではなく何故かそうなる)
こういうものもある種の「才能」なのだろうか。

総ては「憧れ」から始まる。
当時好きで見ていたハリウッドのマフィアものの映画なんかは、カッコイイ役者はみんな喫煙者だったし、刺青も入っていた。
愚かながら、何よりそれを自分でカッコイイと思ってしまったのだ。
それからは止まらない。
とはいえ、実際に人殺しをするかといったらそこまでではなく、ただ形だけ入ってしまっただけに過ぎないのだけど。

今になって気づいたことは、それもすべて自分の中ではただの「若気の至り」というヤツなのだけれど、普通では考えられないとよく云われることだ。
別に自分が「凄い」って云いたいわけじゃない。
何が「凄い」のかもわからんし。

確かに変わっているのかもしれない。
誰と比べてなのかとは云わない。
そんな文章だけで見れば完全な「不良」であるにも関わらず、俺の趣味は物凄くオッサンくさい。
釣りとか野球とかなんかだ。
これは完全な見た目とかけ離れた所に位置するのだろうと思う。

別にそれは良いとも悪いとも思っていない。
ただその場その場でなんとなく思っていることを実現させてきたらこうなっちゃいました、ってなだけの話だ。

だが人生の分岐はいつでも不思議なものだとは思う。

俺がこうなった可能性は?
誰にも計り知れないだろう。

それで実際のところ、自分がどうなりたいのか、という最大の論点については全くまとまっていない。
結局、今までもそんな行き当たりばったりでやりたいことをやってきたのだから、いまさらそれを我慢しようと頭の中でわかってはいることでもやってしまうことは多々あるのだろう。
「人間は過ちを繰り返す」というが、「過ち」を「過ち」と判断するのは誰だろう。

たとえば、他人に俺が刺青を入れていることが「過ち」に映ったとしても、俺の中で「過ち」でないのならばそうではないのではないか?
いや、こういう考えこそが「利己的」なのかもしれない。
「お前の考えていることなんか知ったことか、俺は俺だ」という一種の信仰だ。

そしてそれが何を意味するのかといえば、何も意味しない。
結局は自分に回帰するところというのはよく云ったものだ。
俺みたいな人間にとっては世界の崩壊よりも自分の崩壊が怖いのではないのだろうか。

でもどこかしらで「いつか俺は死ななくちゃいけない」という気持ちもあるし、「自分の周りの人間だけは大事にしたい」っていう本当に最低限のところだけは底にあるようなので腐っちゃいないのかもしれない。

そしてだんだんこのブログが自戒につながっているような気がしているのです。