くうちゅうくらげ

-A Boys Named No.28-

たとえば、ぼくがしんだなら。

たとえば今僕が死んだとしよう。死因は爆死でも餓死でも壊死でもなんでもいい。友人たちは「あいつ全裸で死んだらしいよ」「てつまさんがオナニーのしすぎで死んだってホント!?」「晩年はうさぎのおやつしか食うものがなかったらしいよ…」「あいつSMクラブで蝋燭をアナルに突っ込まれてショック死したらしいよ」などと、故人の数々の誇らしい姿を思い出しながら、別れを惜しみながら涙しようにもできないというところで幕は落ちる…。Fin…。ええい、うるせいやい!

 

さて、死について少し書きます。

まあ死については諸説、古今東西いろいろありすぎて何がなんだかよくわからないです。よくわからないですが、某宗教の教えのように「善行をすれば天国」みたいなのは結構無理があるだろうと思います。
それは、善行というそのものが環境や時代によってかなり変化するものだからです。
ここ日本では、人殺しは圧倒的な悪ですが、アフリカのすっごい貧しい国とか現在内乱中の某中東諸国なんかでは、人殺しこそ善行みたいなところもあるでしょう。

なので善いこといっぱいすれば死後は天国、というのはちょっと信じられません。「善いこと」というのは結局「自分が善いと思うこと」でしかないからです。90%の人にとっての善いことは残りの10%の人にとっては悪いことです。その昔、僕の知人がタバコをポイポイと路上に捨てるので咎めてみたら「オレみたいなヤツが掃除屋に雇用の機会を与えている」とかいうトンデモ理論を語ってきたことを思い出します。仮にそんなことを思っているのだとしたら、僕には悪行にしか見えないけれど、彼からしてみたらそれは善行でしかないのかもしれません。ちょっと極端ですが、そういったことも、実際にはもしかしたらあるのかもしれません。世界からゴミが一個もなくなったら掃除屋は廃業するのです。

 

たとえば、5万人の命を救ったゴッドハンドの医師がいたとして、その医師がなんかの間違いで新婚の妊婦をひき殺してしまいました。妊婦の夫は激怒します。ワイドショーにもなります。仮に5万人の命を救ったからといって、残りの4万9999人を殺して良いというわけではありませんので、医師は物凄く悪者になります。当たり前です。
お年寄りに席を譲るのは善行だと思われがちですが、それは譲られた側が善行だと思わなければ悪行になってしまう可能性だってあります。「オレのことを年寄りだと思ってんのか!」とキレられたという例もあるようです。

だから「神は君の行いを見ているのだよ」みたいな某宗教もそうですが、ちょっとそのへんは死後に関してはあんまり関係ないように思えます。


少し話は変わりまして、今僕がここにいるというのはなかなかの奇跡です。運命という言葉はとりあえず放っておきます。すると、一応数学的には奇跡の一言で済ませて良いのかというくらいです。元を辿れば僕は父親の3億の精子の一つです。父親はその父親の3億の精子の一つです。その父親のそのその父親の…という具合で続いていきます。

僕はそんな奇跡的なアレが積み重なった奇跡の連続で生まれたのですが、他の人も同じように奇跡的なアレが積み重なったアレだったとしたら、ヒロナちゃんという女の子と小学校のときよく席が隣になったのは奇跡の中の奇跡の中にある奇跡です。同じ年齢であることも奇跡であれば同じ地域に住んでいたことも奇跡であれば席が隣になるというのも奇跡です。ヒロナちゃんがすっごくかわいいというのも奇跡です。

ですが、まあそんな顕微鏡でしか見られないような穴の中をかいくぐってきた奇跡とか全部はあまりに奇跡すぎるので、運命って言葉は凄く便利です。そうなっているものなのだからそうなっているのです。

そう、確かに運命という言葉はなかなかにすごいです。なんだか、そんな天文学みたいなことを数字を考えるよりも「いや、そもそもお前の人生はこうなってる」みたいなプランが既に決まっているとしたほうが、信じられるような気がします。僕は自主的に何かを選んでいるようでも、それらは既に選ばれていて、決まっていることなのです。

まあ、仮にそれらが決まっていたとしても、誰かが教えてくれない以上は、明日からの生活が変わるわけでもないのでどうでもいいことなのです。


僕は死ぬことに関しては結構前向きです。もちろん自主的に死にたいともあんま思わないですが、死後もっと楽しくなると考えれば死ぬことは別に怖くないです。いや、実際は高いところに行けば足は震えるし、ぶつかりそうになればブレーキをかける時点で怖くないというのはウソですが、それは動物としての本能で勝手に怖がっているだけだと思っています。

僕は霊感もないですし、スピリチュアルなものもあんま信じないほうですが、とりあえず「身体は借り物」ということにしています。どっかに魂的なものがあって、死んだら身体は動かなくなるけど、その魂的なものだけ浮かび上がって、そこには現世では死んでしまった大好きな人とか会いたい人とかがちゃんといて、金とか愛とかそういう概念が一切なくなって、行きたい場所にもいけるし、とにかく凄く自由になる。

そう考えれば、死んでからが楽しくなるんじゃないか、と思えるのです。

別に実際どうとか他の人がどうとか関係ないです。そう思っていれば、とりあえず自分的にはなかなか救われるので勝手にそう思っておきます。


どうしてこんな話を突然書いたかというと、この間家で飼っているうさぎの1匹が凄い体調悪くなって、まあ結果的には良くなったのですが、もしこのうさぎが死んだとしたら、のことを考えたからです。

 

僕のうさぎは死んだら、灰になるだけとか、骨になるだけとか、終わりのない絶望とか、そんなふうには絶対ならない。僕のうさぎは天国なるものでにんじんとかブロッコリーとか、好きだったもんを好きなだけ食って、終わりのない高原を好きなだけ走り回って、誰にも追われることなく、何にも奪われることなく、とにかく幸せに過ごす。僕はそう信じる。絶対に。