くうちゅうくらげ

-A Boys Named No.28-

I lay myself down,To make it so, but you don't want to know.

人に対して「死ね、消えろ」というのは良くないと思う。
…何小学生みたいなところから入っているんだ、俺は。

まず、自分は喜怒哀楽の「怒」の感情が非常に低い。
特に個人に対して怒ることが殆どと云っていいほどない。
本心で「マジでこいつ死んでくれっ!」って思ったことなんて憶えている限り1回もない。

そもそも、それを云うことや思うことに何か益があるのだろうか。
少なくとも俺にとっては「無い」
だって人は放っておいても死ぬし、ある特定の人と一生涯付き合っていかなきゃいけないことなんてほとんどない。
その気持ちを明るみにだせば相手もそう思わないだろう。
学校で長くて10年、家族だとちょっとややこしいが、友達なんて一瞬だ。

あくまで自分の場合、個にそう思うことが無い反面、「個」をそうしてしまった「団体」や「社会」に怒りを感じることがある。
「こんな社会だから」とか「こんな法律だから」とか。
でも、それも別に怒なのかといったらそうではないような。
諦めに近い「哀」だと思う。
たとえば、自分の金を盗まれたとしよう。
自分の彼女が浮気したと仮定したとしても良い。
友達に裏切られたりしたとしよう。
それに対しても多分、諦めを含んだ「哀」が出てくるのだろう。
もしくは相手への哀れみにに対する「哀」だ。
結果的に俺のほとんどが「哀」で出来ているのだと感じた。

そして「喜」「楽」もあまり感じにくい。
「喜」も「楽」も総じて「哀」に繋がっていくような気がするからだ。

だが、多分なのだが家族とか殺されたらとんでもなく怒るとは思う。
これ、経験がないからあくまで「思う」なんだけど。
でも、それにしたって怒鳴り散らすことはないと思う。
泣くことはあっても。
冷静な怒りが計画を持って出てくるようなことはあるだろう。
ちなみに俺は怒ってもいないのに怒っているフリをすることもできるぞ。

感情を上手くコントロールするということを望んだ憶えは特にない。
尤も、感情が「無い」人になろうとした憶えはあるが。
…ということは自動的にそうできるようになったのか、そうせざるを得ない環境下だったかってことか。
だが、それにしてもそんな思い当たるフシはないぞ。

こうなってくると教育と環境と自分の遺伝子的なものと、まあ全てなんだろうけど、その何処で今の自分が形成されているのかはかなり不思議な問題だ。
何がいけなくて何がよければそうならなかったのか。
もしくはそうなったのか。
そんなことで哲学を発展させても意味ないけどな。