くうちゅうくらげ

-A Boys Named No.28-

そう信じる理由。

俺は今日もデスクに座りながら、禅問答を頭の中の僧侶と交わしていたのであります。

その禅問答の一端は、今日部下が突然「やめる」などと云い出したことによります。
部下たちは異口同音に「ふざけるな、いきなり」と罵りましたが、俺はすぐに「まあ悩んだ結論なら仕方ないだろ」と擁護しました。
すると、彼らは驚き、そしてすぐにその中の一人に「先輩、成長したんすね」と云いました。
そう、その通り、以前の俺ならば、自らが真っ先に啖呵を切っているところなのです。
しかしなんだ、此処では、喜怒哀楽を棄てることが、「成長」なのか。

とある昔、「成長」とは、と考え始めたときに、俺の「成長」は止まったような気がします。
背が伸びることやヒゲが生えることは、確かに成長でしょう。
それでは俺のどこまでも侘しいこころに対して、誰かが「美しい」と云い、誰かが「醜い」といった場合はどうでしょう。
侘しいこころは、「成長」なのでしょうかね。
肉体的に成長することと、精神的に「成長」することは、違うことなのだと思いました。

それに対する答えはいつ、どこにだって、ない。
裏を返せば、答えなど、いつ、どこにだって、ある。
この思考を止めないことこそが、何かにつけて「成長」に繋がるものでしょうか。
どちらにしても自分が“そう信じる”ことから始まります。

人生は常に無常で、哀しく、空しく、儚い。
その無常さに、哀しさに、空しさに、儚さに、止め処なく、様々な色が宿る。
そして残念ながら、その色は人には見えないのです。
だから、心で感じることで、その色に届こうとする。

目に見えるものよりも感じるものを信じる理由は、そこにあります。
何故ならば“そうしていれば”正義は常にこちら側に生まれるからです。