くうちゅうくらげ

-A Boys Named No.28-

本当は其処に「君の人生はこうなるはずだったんだよ」って、書いてあったんだろ。

僕は現実にとどまろうと苦闘するあまり、ほかのことは徐々に脇へ追いやってしまっていた。
頭にはもう何の考えも残っていなかった。
一つ一つの瞬間が順繰りに現れるばかりで、そのどの瞬間においても、未来は単なる空白としてしか浮かんでこなかった。
何一つ定かでない、白い一ページ。

友達がよく云ってくれたように、もしも人生がひとつの物語であり、人はそれぞれ自分自身の物語の作者なのだとしたら、僕は自分の物語を、その場その場で捏造しながら進んでいた。
決まったストーリーというものを持たず、一つ一つのセンテンスを思いつくままに書き綴り、次のどんなセンテンスが来るのか、いっさい考えようとしなかった。

もちろん、別にそれでいっこうに構わないとも云えた。
でも問題はもはや、出任せで物語を捻り出せるかどうかではなかった。
出来ることを実践してみせたんだ。
考えていることは、インクがなくなったらどうするかということ。
四次元世界に迷い込んで、戻ってこられなくなってしまったスペース・トラベラー。

そういえば、何度考えても、君は不思議だった。
「個性などない、わたしはどこにでもいるおんなのこ〜」
と云いながら、それは「私は此処にしかいない」という無意識な安心感を携えているように見えていた。
ところが、僕はどうだ!
「僕は個性に満ち溢れた、此処にしかいない唯一無二の存在である」
と云っておきながら、いつになっても、いつになっても、それを認めることが全く出来なかったじゃないか!

しかしそれにしても不思議だったのは、僕は自分で仮定した“ライフライン”を失ってからも生き続けられるということ。
つまり、そんなものは“ライフライン”ではなかったのだということだろう。
さて、そうなれば僕にとっての“ライフライン”とは何なのか。
それは死ぬときに気付くだろうか。
いや、きっとそうなのだろう。
僕は様々なものに気付くのは死ぬ時であろうと思っている。
そしてそれを、そんなに悪くないことだと思っている。

今思い返すならば、それは自覚があった、ということ。
僕が謳い続けた「インターネットに繋がない努力」というものが何を作り上げたのかというと、たとえば期待の片隅には「今以上に自然を感じる」だとか「今以上に周りを遮断する」とか色々とあった(はず)のだけど、やはり心が自由でなければ何処へいても自由ではないな。
逆に云えば、心がどこへでも行けるのならば、それはインターネット云々の話ではないんじゃないかと想像してみる。
小さなこだわりを持つものほど小さな人間になり下がるということか。どちらにしても意識するべきことではない。

そう。
僕が何かを書こうが書かなかろうが、勝手に他人の物語は進む。
だが、僕の物語は僕が書かなければ一向に進まない。
物語というのは、ただの行動の軌跡などではない。
強いて云うのならば、感情の軌跡とでも云ったところだろうか。

ただ一つ、わかったことがある。
カオス理論だとかバタフライ現象だとか呼ばれている“あの時こうしていれば”は無いと思った。
やはり僕はもし1年後や1週間後に起こることがわかっていたとしても、同じ選択をすると思った。
たとえばあの時、もし大切にしていた友達が死んでしまうことがわかっていたとしても、僕は酒を飲んでいたと思う。
「そうするしかなかったんだよ」ってことを自分に言い聞かせながら、そうしていたと思うんだ。

今や僕の人生は、次第に形をなしつつあるゼロに他ならない。
それはこの目で見ることが出来る無、ほとんど手で触れられそうな、急速な成長過程にある空虚だ。
過去に足を踏み入れるたびに、現実世界において物理的な変化がもたらされる。それらの変化の具体的な結果はいつも僕の眼前にあり、それから逃れる術はないような気がする。

出口の無い心の部屋。
そしてその部屋の中を見渡すだけで、事態は否応なしに目に入ってくる。
部屋は僕が置かれた状況を測定する機器のようなもの。
僕というものがどれだけ残っていて、どれだけなくなってしまったか。
僕はそうした変容の犯人にして目撃者であり、たった一人の劇場における役者にしてかつ観客だ。
自分の四肢が切断されるのを僕は常に見届けることができる。
これからも自分自身が消えていく過程に、逐一立ち合うことができる。

僕は考えるのを随分と前にやめてしまったつもりだったけれど、小さなまどろみの中で思った。
そもそも夢が現実なのか、現実が夢なのか。
『もし今までの人生の全てが嘘で、私が目の前でそれを笑い飛ばしたとしたら、あなたはどうする?』
AM2:50、少しのセンテンスの後で、一人で食事を取る青年は考える。

振り返れば美しい言葉を紡ぐことなんて、とうに出来なくなってしまっていて、ただ惰性の日々を狂った人形のごとく動くのみだ。
右から左へ左から右へ。
だけど、ゼロを作り出したのは自分自身なんだ。
そして、一度其処へきてしまったからには、またゼロからはじめなければならないんだ。
そう考えながら、僕は、自分がなすべき何かとは何もしないことである、という結論に達した。
僕のなすべき行為とは、いかなる行為も戦闘的に拒絶するという行為なのだ。
云ってみれば、美的次元まで高められたニヒリズムなのだろう。

それで、どうなんだろう?
そんなことを知って、これから僕は何を得るのだろう。
結論を得て、時代を蔑んで、哀しんで、自らを見下した。
僕は自分の感性を酷く疎かにしてしまっていた。

今日も暑い。
ただ、晴れた空と繰り返しだけの日常は、凡てを忘れるには辛すぎて―