くうちゅうくらげ

-A Boys Named No.28-

これははじめてのことじゃないし、最後ってわけでもない。

「会いたい人」というキーワードを頭の中で追ってみると意外にいることに気付いた。不幸な結婚をした友人、いきなり退職した仲の良かった同僚、なかなか良くしてくれた高校の担任、一度きりのセッションで会ったジャズ仲間、死んだ大事な人、未だ会ったことのない昔からお気に入りにしているブロガー。同じキーワードで他人が考えた時に、ひとりやふたりでもその中に自分が入っているかもしれないという可能性を考えた時、そんなに悪い気分じゃない気がしてる。

 

ほとんどの人にとって僕が「そのほか大勢」であると同時に僕にとってもほとんどの人が「そのほか大勢」ではあるのだけど、僕の家族にとっては僕は家族だし、友人にとっては僕は友人であるわけで、だから僕が大事にしている人に僕が大事に思われていたりしたら、それはかなり稀なことなんじゃないだろうか。ただの僕がただの君とまず二人で話している時点で、その巡り合わせはものすごく稀なことなんじゃないだろうか。

 

ただでさえ99%以上が「そのほか大勢」の世の中で、たったのひとりとたったのひとりが愛したりセックスしたり家族になったりしてる。

 

だから、100%素直な気持ちでお礼を云えたんじゃないだろうか。こういう話を、死ぬ前に、会えなくなってしまう前に、できたんじゃないだろうか。

 

いつも一番云いたい人に一番云いたいことは上手く云えず、すれ違って、また他の誰かと重なって、また云いたいことは云えず、消えてしまい、会えなくなり、最悪の場合死んでいってしまう。最高のタイミングで最高の言葉を伝えることができたんじゃないか。そのチャンスはたくさんあったんじゃないか。

 

こういうことを今更になって気付き、そしてこういうことをちゃんと話せば良かったと思う。そして今後そういうチャンスがあったときに、また何も云えない自分という奴を含めて、後悔の連続である。

 

僕は大切な人を大切に思えないまま失い、大切に思った時にはもう大切ではなくなり、大切ではなくなったときに大切だったと知る。そしてその大切な人や瞬間を思い出してはその都度哀しみを積み上げている。

 

だけどもし上手くやれていたのならこの積み上げたイビツな形の哀しみというやつは存在しないのだと思えば、いつしかこの哀しみは暖かさになり、友達になり、少なくとも僕はこいつを愛してやらなくちゃならないと思う。

 

そう思えたとき、僕はようやく人生と他人の有り難みを知り、いつも上手くやれない自分を含めて、そんなに嫌な気分ではなくなる。

 

年の瀬にそんなことを考えながら、安い酒を飲んで、「僕はこの僕と死ぬまで寄り添わなきゃいけない」という自分なりのプライドと向き合うことを少しばかり決心する。たまには涙を流しながら、また春、夏、秋、冬を、もう一回、もう一回、と越えていく。

 

微睡みの中で、いつか寄り添う生きているひとり、死んでいるひとりたちが僕を救っていき、僕がそれらを救うことを夢見ながら。