くうちゅうくらげ

-A Boys Named No.28-

選んだのは邂逅。

夜中に繁華街を歩くと、妙に緊張します。半袖で歩いていてもコートを羽織っていても緊張します。それはなぜなのかというと、云うなれば夜の街にトラウマがあるからということなのでしょう。

 

僕は15歳くらいの頃から約2年ほど前まで、長いことバーやホテルでピアノの演奏をしていました。

 

だいたいバーやホテルっていうのは繁華街の途中か、繁華街の先にあります。バーは深夜営業がほとんどだから、僕は何度も何度も色々な街の深夜の繁華街を歩いてきました。そして、僕はその度に緊張していました。「今日はミスらないといいな」という不安材料と「今日は一人でも気に入ってくれたらいいな」という淡い期待。そういう類の緊張。

 

そして、それらが待ち受けていない今となっても、夜の繁華街を歩いて風を浴びたりすると、途端に不安な気持ちと緊張が襲ってくるのです。

 

で、この緊張感はというと、とある感情に似ているということに気付きました。それは好きな人と待ち合わせをしていて、そこに向かう時です。もう長いこと好きな人なんていないわけで、実際好きな人と待ち合わせをする状況なんて人生で数えられるほどしかないのですが、それでもやっぱり似ていると思います。云わなきゃいいのにと思わせるの前提で云うけど風俗嬢を待ってる感覚にも似てます。やっぱり云わなきゃ良かったです。

 

今更こんなことを書くのも何ですが、ジャズを辞めたことに対して未練があるかないかと誰かに訊かれたら、やっぱりあるんだと思いました。というか、ジャズ自体に対しての未練というか、上に書いたような「感情」への未練と云った方が正しいかもしれません。だけどこういう類の感慨は、やっぱり「辞めた」からこそ感じられるものであり、実際に僕がまたあの場所に戻っていったら、やっぱりそれはまた別物ということになるのでしょう。

 

世の中には様々な夢を持った人がいたでしょう。小説家でもいいし漫画家でもいいし画家でもいいしバンドマンでもなんでもいいですけど、プロもいれば、プロになろうと思って、それでもなれなかった人っていうのもたくさんいるはずです。

 

僕は正真正銘、ジャズでプロになりたいと思っていました。売れたか売れないかで云えば、圧倒的に売れなかったわけではありますが。だけど、もし「金をもらうこと」がプロとプロ以外の境界線をわけるとしたら、一時期、僕は「プロ」でした。契約を取って、場所を与えられた以上は、仕事でもありました。確かにすばらしい経験ではありましたが、その場所に戻りたいとはやっぱり思いません。精神的にも肉体的にもプロであることは辛かったからです。

 

うーん、未練か。未練がないとしたら嘘になるけど、こんなのは別れた女に対して、数年後「やっぱりあいつはイイ女だった」って思っているようなもので、さらにそれが一方的にフラれたような状況じゃなければ忘れるしかないよなって話。

 

そうだなあ、やっぱりジャズで売れたかったんですけどね。がんばらないで売れるほどイージーじゃなかったし、がんばって売れたいほど情熱があったかと云われると怪しいんですよね。センスもないほうだったんでしょうし。

 

感謝はしています。僕はジャズによって生かされてきたわけですし、それがなかったらどうなっていたかわからなかったのですから。だから今は今で、誰の目に付かないような結婚式のBGMだとか、深夜の一人の部屋だとかで演奏できております。そういうので満足しているといえばしています。んで、結婚式のBGMとかでも、誰かに感謝されたらその時は、やっぱりやってて悪いことはなかったんだなあと云う気にもなれますし。

 

ただ一つ、明確な未練があるとしたら、持ち運びできる楽器を極めればよかったです。そんなわけでここ5年くらいはアコギにハマっているわけですけど。でもアコギじゃクラシック弾けないですからねえ。

 

まあそんなこんなで、深夜の未練ぶった風とか温度に感慨を感じましたよってだけの話でした。ちゃんちゃん。