くうちゅうくらげ

-A Boys Named No.28-

この人を見るな。

僕があのときの気持ちのまま腐るほど音楽に没頭できてたとしたら、今はどうなっているだろう、的なことを考えていました。売れるとか売れないとか評価されるとかされないとかも超越して、生きるか死ぬかすらも全く気にならない次元まで、没頭できていたとしたら。今は幸せだったのでしょうか。

 

とにかく、現実逃避そのものが足を支え続けていた時期が確かにありました。

 

世の中のアイドルや芸能人や作家なんかもこの「変わりたい」「変えたい」一心で何かから追われるように逃げ続けて今の地位を確立「しちゃってた」みたいな人もいるのかもしれません。

 

画家なんか顕著なのかもしれません。あのゴッホであったりピカソであったりは、生前は全く評価されなかったと聞きます。だけど彼らは描き続けた。たとえば彼らのようになれていたらどうだったろう。

 

恋に関してもそうだったような気がしないでもないです。僕の場合は運良く振り向いてくれたから良いものの、この漠然とした現実逃避からくる、好きなのか嫌いなのかすらも全く気にしないその様は、なるほどストーカー気質すら超越したものになってくるのでしょう。

 

僕は、求めてしまったのです。僕は、振り向いてしまったのです。この曲はいったい誰の為の何のものなんだろう、と、そして、あの人は僕のことを本当に好きなのか、ということを。僕はきっと変われる、僕はきっと強くなったんだ。それが間違いだったと、今では思ってます。

 

ですが、そのときの僕が振り向いていなかったら、振り向いていなかったことを間違いだったと思うかもしれません。そして、その「もし、たら、れば」は「無い」ということになっています。そういう意味でもこの間違いだったと思うことは間違いです。

 

最近たまに、結婚式場で、完全なる脇役として、滅多に触れないパイプオルガンを弾いています。今はこうなっているというだけの話です。

 

暗い音楽スタジオで数時間ピアノを弾いただけで、評価される世の中なんかじゃない。だけど僕は評価されることがそんなに大事だったのかと自分に問うています。ただ単純に爺ちゃんをはじめとした大事な人に喜んでもらいたかっただけなんです。そして、大事な人がいなくなった瞬間に、僕はほとんどやめてしまいました。聴かせる相手も、いなくなってしまったから。この他人がいること前提の「愛」は散々僕を苦しめてきました。そこに「僕」は何処にもなかったといっていいでしょう。

 

好きとか嫌いを判断し、僕が僕を認識した時点で、現実逃避は終わりました。そして同時に、夢が終わりました。現実逃避は、そのまま僕の夢でした。「自分を自分として受け入れてしまった」僕はこの一点で、光も影も失ったのかもしれないです。

 

世の中には「自分を許せ」という言葉があり、そしてそうした時点で他人も許せるということになるという。自分も他人も許し始めた瞬間、僕はただの何でもない「人」になりました。そして僕は恨むことになります。世の中に溢れている「素晴らしい言葉」を。

 

僕とピアノの蜜月は終わりました。だけど僕は誰の為でもなく、自分を戒める為だけに、いつどこにも発表なぞしない楽譜を紡いでいます。これは夢なんかじゃなく、ただの自己陶酔であり、自己満足であり、同時にとても醜いものでもあります。

 

だけど僕は僕を逃避していかないと、何も出来ない。またどうせ明日も、つまらなく苦い夢にうなされ、涙を流すことは、明白だからです。

 

冬にはたくさんの苦い思い出があります。そして、重苦しい感情の中に大事なものもたくさんあります。心の中に響く声を「そうだね、そうだね」と云って聞き流しています。

 

聴く人がいない、見る人がいない、それは唯一の救いです。