くうちゅうくらげ

-A Boys Named No.28-

愛が力になる。

どれだけ内容や考えや自分自身の内面を誇れないとしても、このブログの中で唯一胸を張って云えることがあります。それは「やめていない」ってことと、「初心でいる」ということの2点です。

 

僕が2004年に、はじめて@ワードという場所で日記を書き始めた時の文章の中には「どうせ自分のためになるだろうしやっておこうかな」とあります。2008年にはてなダイアリーに移動してきた時も「どうせ自分のためになるだろうしやっておこうかな」と書きました。2010年にも「どうせ自分のためになるだろうしやっておこうかな」書いてます。そして僕は今も「どうせ自分のためになるだろうしやっておこうかな」と思いながら、ここまでクソみたいなことを書いてきてます。誰も見ていなくても、です。

 

特に2009年ごろまでは誰一人見る人はいませんでした。これは確かです。なぜ確かかというと、そのころの僕は割と見られようと努力してきてまったく見られなかったので記憶に残っているからです。今は見てる見てないとかはかなりどうでもいいようになりました。なぜならば、こないだも少し書きましたが、仮に凄く大勢の人に見られてたとしても書く内容は変わらないと思うからです。強いて云うのであれば気を使う人は見に来る人は少ないほうがいいんじゃないかなって思います。僕は気を使わないのでアレですが。


で、なぜこれが誇れるかというと、ブログっていうのは、書こうと思わなければ書けないからです。書きに「来ない」と書けません。勝手に僕の感情を文章にしてくれる天才ソフトとかないです。まあ例外としてメールで恋人への文章を間違えてブログに送ってしまうなんていう馬鹿げた話が数年前の芸能界なんかで頻繁にありましたが、それは恋人がいる人にのみ適用されるという時点で馬鹿ですし、そもそもメールでブログを更新なんて馬鹿としかいいようがありません。そもそもアイドルなんかが毎日更新するような「私の新しいネイルだょ」みたいな馬鹿文章なんてどんな馬鹿でも書けます。犬でも書けます。下手したらうちのうさぎでも書けます。

 

この「私の新しいネイルだょ」に関しては、今でも各地の至るところで繰り広げられているでしょう。僕はこれが物凄く嫌いです。そんな馬鹿は朽ち果てろ大馬鹿者!いつか仕返しに「僕のちんちんだょ」とか云って思いっきりちんちんの画像載せてやりたいです。何の仕返しだ?そもそも誰が得するんだ?だけどお前の「ネイルだょ」も誰も得しないよな?じゃあ「僕のちんちんだょ」も一緒だよな?それだったらこの際僕のちん…


まあ「私の新しいネイルだょ」を批判してみたはいいものの、実は「これが僕の人生だょ」もあんま大差ありません。なぜならば別に誰も気にしないからです。もし気にするとしたら実際に僕と関わりのある数人だけでしょう。なので僕の書くほとんどはアイドルの書くネイルのくだりと同じで「意味ない」です。ある視点からでは見てる人や気にする人の絶対数が圧倒的にアイドルのほうが多いので、もしかしたら僕の人生よりもアイドルのネイルのほうが世界にとっちゃ大事なのかもしれません。でも僕の視点からすると、前述のとおり、その「ネイル」には意味ないです。無意味です。強いていえば人生にも意味なんてないです。人生に意味がないので、ネイルにも意味がないです。だからブログを書くことにも意味なんてないです。

 

でも僕の人生では意味ないことの集大成が意味あることになってます。なぜならば僕は「意味って言葉の意味を理解してないから」です。

 

だんだんとただの卑屈な日記になってきたので、話を戻します。とりあえず、書きに来ないと書けないこのブログ地帯で、まあ少なくて月に1回、多くて月に20回くらい更新してるわけです。意味ないのに。だけど、褒めようじゃありませんか。結構、大いに結構。書くことがたくさんあって結構。それを話す相手が一人もいなくて大いに結構。素晴らしい。天晴。


で、まあ少々真面目になりまして、割と書いていることでもあるんですが、この「やめない」とか「書き続ける」とかって意外と大変なことです。まず時間作るのが大変です。僕みたいに終始孤独で家にいてもゲームかオナニーみたいな人はまあいいですけど、ふつうに仕事しててふつうに恋人とか家族とかいて、とかまあそういう人は大変だと思います。やめちゃう人はいっぱいいます。書き続けられない人もいっぱいいます。理由はきっとそれぞれです。それに関して批判したり否定したりはしません。なぜなら僕がやってるんだからお前もやれっていうのはおかしな話だからです。これはブログじゃなくてほかのいろんなことについてもそうです。僕が努力とかして仮に成功したとしても、相手に同等の努力と結果を求めるのは死ぬほどうざったいからです。


しかしそのことを一切棚に上げて個人的に云うのであれば、僕の“要望”はただ一つ。「やめるな、消すな」だけです。これじゃ2つか。これはただ単純に僕個人がなかなか寂しいからです。僕が気にしていた日常がいきなり消えてしまうのは、なかなか切ないからです。んで、なんでそれがいやなのかというと、僕が個人的にそう思うから以外の理由はないので、この“要望”は相手の理由や事情はそっちのけです。


僕が書いていることが「誰かのためになる」ということは「絶対にない」です。他人側のことは知りませんが、少なくとも僕の中では「絶対に」ない。なぜならば、一瞬でもそう思ってしまうと「誰かのためになることをやり始めるから」です。僕にとって「誰かのためになることをやり始める」ということは、このブログのコンセプトではないです。仮に僕がもし、根本が自分のためではなく他人のためというベクトルに移すとしたら、そうした瞬間にここは畳みます。そして違う場所で「ちんちんはこんなにおっきくなるんです あなたも試してみては?」とか書き始めます。んでそれは僕にとって楽しいかというと、たぶん楽しくないです。


僕がくだらない日々とくだらない思いを書き続けてきて、まあ今現在も書いてますが、それらを踏まえて思うことは、ただ楽しいから続けているだけだってことです。苦痛になったら書かなきゃいいだけの話です。仕事じゃないし。単純に僕はブログでなんか書くことが好きです。その背景にある原動力には誰にも話を聞いてもらえないからとかそういう、あらかわいそうな見捨てられくらげちゃん、とかそういうところも確かにあるのですが、まあそれはただの背後の景色でしかないです。それだけが理由じゃないです。


今まで(今でも)いつ死んでも誰も悲しまず、むしろ気付かれすらしないんじゃないかって人生を過ごしてはいますが、それでも僕は生きた意味を残したいんですね。というのも、そんな言葉ほど大それたことをしたいなら本でも書けよって話なんでそこまで肥大した自己顕示の話ではなくて、こうした話を見て「28さんって生きてたんですね」っていうことが世界の数億分の1でもいいからいてくれたらいいなって思うんです。2004年からそう思ってきて、今でもそう思ってます。たぶんこれからも。言葉じゃなくてイメージで共有できればなって思っているだけなんで、文章の内容が理解できるとかできないとか好きとか嫌いとかどうでもいいです。


だから内容とかどうでもいいのでこれからもくだらないことを書き続けます。なぜならば、数億分の1には、僕と同じようなこと考えてる人もいるっていう“可能性”があるからです。“可能性”を捨てるということは、これすなわちそのまま僕の人生の敗北です。仮に未来に負けが待っていたとしても、僕は勝った気になって死んでやろうと思うのです。どんだけ無様でも、どんだけかっこわるくてもいいです。別に葬式の花束を1つ増やすために生きてるわけじゃないです。ただ僕は笑いながら死にたいだけなんです。「くそみたいな人生だったな」って思ったとしても、ただ笑いながら。


届くように、とか伝わるように、とかは考えません。あくまで僕は僕のために今までやってきたのだから、これからもそうします。

 

「あんた生きてるね、ぼくも生きてるよ」僕が欲しているのはこの認識だけです。これが共存です。内容とか理解とかはどうでもいい。死にたいって思えるってことは、生きてるってことだからね。