くうちゅうくらげ

-A Boys Named No.28-

月明かり日は、夜に吼える。

今日はきっと涼しいはずなんだろうけど、厚着をし過ぎたせいで暑く不快だった。本来は毎日時間きっかりに目覚め、時計の針を合わせて、余裕を持って食事をとって、軽く身支度を済ませて、駅の階段を優雅に踏みしめる、というのが俺の目指すところなんだ。だが、実際の俺は前日に徹夜で無駄なことをし、起きたら時間がなくて食事もままならない、駅の階段は1段飛ばしで駆け下り、足を引っ掛けて転びそうになる、と云った惨憺たる有様だ。それと俺は、いつまでたっても判子を真直ぐに押せない、そんなクズ人間だ。

そしてたどり着いたその先は六本木。世界各国から有数のセレブリティ達が集う、その場所だ。六本木ヒルズなんて大した場所じゃない、こんな建物、倒壊してしまえばいいさ。世界で1番醜いところだ。

いや、実際にはこの場所の何が醜いのかよくわからない。あえて云うなればその建物の中にいる人たちが醜いと云う表現をするべきなのだろうけれど、その中にいるその醜いであろう人々と交流を持ったことはない。だからつまるところそれは俺が、悠然と建っているその建造物が、そこに住み着いているだろう人々が、高地から自分を目掛けて唾を吐きかけてくるような気がしてたまらないだけなんだ。だが昼に聳えるその建物の明るく彷徨なイメージとは裏腹に、深夜になればそこはいつも閑散としていて、人っ子1人いない、寂び付いた建物だ。仕事の前後や合間はそこの周りを意味もなく散歩する、と云うのが俺の日常だったりする。

そうだな、きっと、小さい頃に船を見たくて父さんと駆け上がったあの防波堤の、夕陽を浴びたくて走り抜けたあの波止場の、それと同じ匂いがするんだろうな。そう、そんな気がするんだ。

思えば母さんも、俺が自転車に乗れるようになるまで練習に付き合ってくれたっけな。それはそれはとても下手くそだったから、かなり時間がかかった。それでもきっと、笑顔でめげずにさ、ずっと傍にいてくれて。

いやなぜこういう気分になるのかはよくはわからない。共通点が無さすぎるし、覚えていられないことは多すぎる。だけど、今俺が被っているこの帽子さえここに置いてしまえば。それさえここに置いてしまって目を閉じれば。いつ、どこにいたって、そこは全て俺の場所だ。

それからいつも通り、その醜い建物の隣に建つ錆びれたビルに着いて、出勤表を見た。そうすると、自分の名前の右上が「3」から「4」になっていることに気付いた。その数字は勤続年数を意味するものだ。池袋に1年半、そしてここ六本木に2年半。計4年が経過したと云う、馬鹿げた勲章だ。

とにかく、あれから、4年と云う歳月が経過した。見渡せば最初からいたメンツは数人しかおらず、不意に無駄な孤独感に襲われた。人が去り、人が逝った。どこへ?…いや、どこへ?は厳禁だ。

とにかく、あれから、4年と云う歳月が経過した。日々"何も変わらず”と感じていた毎日だった。だが、そうは思いながらも景色は変わり、人は変わり。家の近くに住んでいた少年は自分の背を軽く追い越し、高校の制服を着ているイメージしかない良く野球を観に連れていってくれたお姉さんはもう26歳か、驚きだ。彼らには、過去の俺はどう映り、今の俺はどう映っているのだろう。

とにかく、あれから、4年と云う歳月が経過した。ええと…自分の中で変えちゃいけないものって何だったっけな。逆に変わらないといけないものって何だ。俺に出来ないことは何で、出来ることは何だ。俺がなれないことは何なんだ。

自分を変えるという自己最大で壮大なプロジェクトは現在進行中…いやむしろ未だ計画中と云ったところだろうか。自分のためだけに呼吸し、自分のためだけに稼ぎ、自分のためだけに食い、自分のためだけに捧げ、自分のためだけに歌い、自分のためだけに祈り、自分のためだけに眠る。特に生きる理由もなく、特に死ぬ理由もなくそうした営為をただ繰り返してきた。いや、これからも。そうした長い逃走は現実に火をつける…こともなく日々淡々と繰り返すだけ。そうした毎日を過ごす俺にも転機が訪れる…こともなく日々黙々と繰り返すだけ。

とにかく、あれから、4年と云う歳月が経過した。たとえば今は10月になったわけだけど、何も考えてなくても風を浴びるだけで去年を思い出させる。なんだ、この感覚が、俺を完全に惑わせるのか。

これが俺の1日で、これが俺の1日分の日記。そして、明日はまた違った1日分の日記。それが俺の1日分のストーリー。過去の思い出に縋るだけなら、現在を生きる意味など無かろう。

さて、飽きたからこんな想いを背負いながら家に帰ろうか。その愚かしさも、汚さも、素晴らしさも、ちゃんと最期は綺麗な場所に還るさ。きっとそこが俺の、マイホーム。こんな風に歩きながら、誰もいないあの家にさ、帰ろうか。

あの人は云ったんだ、「どんなことがあったって笑顔を忘れるなよ」って。だから俺はいつだって哀しくなんてないよ。