くうちゅうくらげ

-A Boys Named No.28-

メガロマニアックス?

さて。
友人に誘われた飲み会から直で大阪への出張へ向かう途中、新幹線でポメラと向かい合って書いているものです。
久々にスーツ着た。と思ったら、こないだ家族会で着た。
俺は旅行や出張ともなると、片方でポメラ、片方でポータブルDVDプレーヤーで映画鑑賞、という器用なことをしでかす。
移動中ですら効率重視なんだが、実は出張なんてのは移動中が1番楽しかったりする。
ちなみにポメラはこうして日記を書く為ではなくて、向こうで使う資料とか宣材を作るために持ってきているものなので、このテキストは…まぁつまり暇つぶしってことになる。いや、現実逃避か。

最近は心なしか「すげえなあ」と思える人が周りに増えた。
これがいいことなのかはわからない。
人ってのは、その人が思っている以上に相手に「すげえなあ」を与える。
なんかそれぞれ持ってるモンが違う。
そういうのが「すげえ」

さぁ俺に何かを与えてくれた人に対して、俺は何を返そうか。
さぁ何を、語ろうか。

そういえば、昨日の飲み会ではだいぶ話したほうだと思う。
俺と会って話したいと思ってくれた人がいたということは純粋にうれしかった。
自分の友達や仕事のことについて語ってくれた人がいた。
ただ俺は思った。
言葉じゃ言い尽くせないくらいの気持ちを持ってしまったとき、人は泣くしかないんじゃないだろうか。
バカだなあって思う。
人はきっとバカなんだよ。

そして今の俺に云えることはただひとつだけ。
ここにいる、一人の人間に幸福な気分をくれた人がいる。
そして俺はそれが大好きだ。
だからほかの人も誰かを好きになって幸せになれ。

恥ずかしいさや、後ろめたさなんて一切ない。
答えはなくても必然的に書く。
それ以外の選択肢を持たない。
俺はこう思っている、ということを日々書き続ける。

思っている、なんてのは単純なもんだ。
他人に対して俺が主張できることなんて多くない。
その人に対して理論的な検証や現実的な議論はきっとそれ相応の知識を持った人がやってくれる。
俺は俺にしかいえないセリフを云おう。
可能な限りの大きな声でそれを云うことが誰か役に立つと信じよう。

自分では「話さないから書いてるんだ」みたいなのって確かにあったはずなんだけど、逆に誰かとわりと話せているときのほうが書きたいことが増えてるような気がする。
だからこそ他人と会話をするようになってから特に物事について“書く”ということについて、よく考えるようになった。

感情というのは、ただ自分のみで処理するもので、それは自分以外の誰にとっても意味がない。
なら、なぜこんなものが自分の中にあるのか。
共有したいわけではなく。
“文字”自体が大事だってことじゃない。

俺が大事にしたいのは“文字”を書き起こしているときのイメージみたいなもの。
そのイメージが少しでも伝わればいいかな。
えっと、今俺が何を見ていて、どう感じているかの“イメージ”
絶対にそれが一緒じゃなきゃいけないわけじゃなくて。
“なんとなく”わかればいいと思ってる。

たとえば今俺の目の前には海が広がってて、時間も時間だし、人はいない。
新幹線ってのは思っているよりも早いもんで、一瞬で景色は過ぎ去る。
隣で同僚が熟睡してる。
俺の耳にはイヤホンから聞こえてくる俳優の英語。
いつも考えていることをもう一度考える。
今、小さな子が通路を通り過ぎた。
新幹線の従業員は俺にコーヒーを勧めてくる。
それに対してなんだか少しだけ自分は無愛想だったかもしれないという後悔。
それと「仕事へ行く」ってことへの少しばかりの憂鬱さ。
まとめあがらない資料への抵抗。
3時間後にはどこかの会議室で震え上がってる自分。
10時間後にはどこかのビジネスホテルで後悔している自分。
今日で死ねねえか、という淡い期待。
今どこかで泪を流している小さな子供。
今日もどこかで誰かに訪れる幸福の瞬間。
とりあえず、いつになく仕事へ行くのがとても不安。
まぁそれだけ。

誰かが救ってくれるなら嬉しいが、俺を救うのは俺自身しかいない。
誰にも理解されないし、誰のことも理解できない。
いやきっと俺は理解“したくなかった”
ここにいる、一人の人間に幸福な気分をくれた人がいる。
そして俺はそれが大好きだ。

詩的なものを書くつもりは、なかったんだけどなぁ。