くうちゅうくらげ

-A Boys Named No.28-

意味のあること。

友達と17時ごろから集まって騒いでいたのだけど、途中で友達の友達(女性3人)が参加することになってなんかつまらなくなったので帰って来た。

何がつまらなかったのかというと、それは会話の内容だ。
「人生の勝ち組と負け組」という話をしていたみたいなのだが、これってどうなんだろう。
途中参加した女子達は、自分の彼氏が負け組みだの自分が負け組みだのなんだか云っていたんだが、俺はこれこそが負け組みだと思うのだ。

少なくとも俺は客観的には、金ないしモテないしビビリだし学歴ないしエロDVDの宣伝してたしドン引きだし別にいいことなんて何もないのだが、それなりに幸せだ。

街を歩けば何がしかのモノを見ることが出来るし、美味いメシを探して食うこともできる。
夜中に出歩いて感賞する事も出来れば、一方的に人を好きになることもできる。
仕事もあれば(儲からないけど)、趣味もそれなりにあって楽しいものだ。
親友といえる人間は少ないが、なんだかんだで友達も恵まれている。
このどれをとっても自分は幸福だろう。

飲み会なんかに出て話をすると俺の話に対して「それって意味あることなんですか」って聞かれることが多い。
でも俺の人生なんて、云ってしまえば生きることすら死ぬことですらも意味のねえことなので、あまり気にしない。

と、いうよりもそもそも「意味のあること」ってなんだろう。
その人が勝手に決めることじゃないのか。
別に理由はなんだっていいのだけど、「何が正しくて何が間違っている」かなんて四六時中考えているのって窮屈じゃないだろうか。

高校時代の友人にKという人がいる。
Kは元々は作家志望だった。
しかし親が厳しく、そのまま大学に就職し、まともに作品も書かないまま卒業して今は就職している。
この間Kと呑みに行ったときにそのことについて問いただすと、「でも親を哀しませるのは正しくないでしょ、本当は作家になりたかったけど」と云っていた。
まあそれはそれでKがそれなりに納得しているのなら赤の他人としてはどうでも良いのだが、本当にそれでいいんだろうか。
俺から云わせてもらえば「親を哀しませないのが正しいこと」みたいな概念からも良くわからないのだが、だからといって親の云っていることを全て無視して作家を志望していたとしたらソイツにとって「正しい」のかと云われればそうも云えないと思う。
Kからしてみたら「親の云うことを裏切って作家志望したはいいけれど、本当にこれは良かったのかなあ」と思ってしまう可能性もあるわけで。

結局正しいことなんて何一つないのだ。
一応日本は法律国家なので「人を殺しちゃいけない」とかそういう類の話をしているわけではないのだが、云ってしまえばその「人を殺しちゃいけない」というのが完全に間違った行為だとしたら、昔はどうなんだろう。
時代によって価値が変わるものというのは「絶対」ではないと思う。

だから俺は価値を決めるのは俺だけだと思っているし、それが傲慢だとしても別に良いと思うのです。
問題はそれを自分で抱えきれるかどうかだな。

最近は時間がないから文章が全然まとまっていないので書いてあることは意味不明だとも思う。