くうちゅうくらげ

-A Boys Named No.28-

にこやかな日常。

先日、飲み会で知人の女性達が「ブログを書く一般男子」について語っていた所、その中で割と美人のTが「そういう人は、マジ、無理」と云いだしたので無駄にヒヤっとした。(もちろん、連中は誰も俺がブログを書いていることを知らない)
つまり俺は「マジ、無理」な範囲に入るのだろう。
そうは思ったのだが、そういう連中の「マジ、無理」は大概にして根拠がなかったりするので、どうでもいい
もしそれが「マジ、無理」なら、「マジ、無理」な人間に生んだ親を恨むべくしかない

というか、むしろ「マジ、無理」なのはこっちの方だ、ビッチ。

と、この場を借りて、決して口説かれても(好意を寄せられても(というか話しかけられても))いないのに、無駄に真っ向から反論したいと思う。
このような些細な事に腹を立てるのは、正に「無駄な」ストレスのため方である。

そんな自分に嫌気が差したからか、

自分の生活からできるだけ「無駄な」ストレスをためるのはやめよう。

と思い立って、出来るだけにこやかに生活をすることを心がけること数日が経過した。

吐き捨てられたガムを踏んでも、にこやかに引っぺがし。
乗れなければ遅刻という電車の扉が目の前で閉まっても、にこやかに見過ごし。
女性に通算1973回目の「うざい」を云われても、にこやかに対応し。
まあとりあえず思いつく限りのすべてをにこやかに過ごしたのだ。

そして、そんな日が続くなか、久しぶりに会った友人のA(男)に、

何ニヤニヤしてんだよ、お前の笑顔は、きもちわりぃ

と云われて、一気ににこやかな日常は崩壊したと同時に悟った

俺の活動の根源は、無駄なストレスである。

思えば、幸福な時ほど何も手についた試しがない。
俺が常に原動力としていたのは、マイナスの感情だ。
怒り、哀しみ、虚しさ、そういったものからの逃避であったに違いない。
云わばストレス発電である。

こんな些細なことでストレスをためられるのは、ある意味幸せなことかもしれない。
厳密に云えば、“お”幸せなことなのかもしれない。

さて、無駄に晩酌をして今日を終えることとする。