くうちゅうくらげ

-A Boys Named No.28-

自己欺瞞を始めましょう。

昔のエントリを振り返ってみると、なんというかまあ、根拠のない自信や憐憫に満ち溢れた自己欺瞞的なものが多いことに気付く。若かったということだろうか。そういう事として片付けておこうか。だがどちらにしても書くことをやめることはなかった。それは一種の義務感か。それとも他に何かあったのだろうか。今になっては何も思い出せない。

だが相変わらず予定がない休日は、ギターを片手に無益な時間を過ごすわけだ。だが、もし今日、逆にどんな1日が有益なのかと聞かれたら?やっぱり明確な答えは出てこないのだから仕方ない。そして俺は理由や結果などは後付けでしかないことに気付く。だから過去の栄光に縋るじゃないけど、昔は良かったと思うことをやめられないのだろう。そこで自分に問う。昔は有益か?いや、時が経ったからこそ有益なものとして存在しているが、実は無益だった。そういう事だろう。

本音はどうか。根本は「自分だけで何とかしなくてはならない」だ。これは建前ではない。そして、その先に想像できる未来というものがどうしても検討つかない。先のことを考えるようになってきたのだ。その時々を本気で生き抜くことは難しい。それと同時に、この矛盾や哀しみとの闘いも「自分だけで何とかしなくてはならない」ことになるので、迷ったり死んだりしたらそれこそ「自分のせい」にしか成り得ない。一体どういうことだろう。自分の行動全てが、「自己責任」という最も素晴らしい言葉に還元されてしまうではないか。

俺はある日、どちらにしても真実はひとつしかないという言葉を文字にしたある“友人”と出会った。図書館へ赴いた時、ふとシャルル・ピエール・ボードレールという作家の「人工楽園」という著書を手に取った。繋がっているとなどと云ってしまったら希薄が過ぎる。それでもなんとなくだが、本当になんとなくだが、彼の頭の中がわかるような気がした。形ではなく、イメージとして。俺は目に見えるものよりも感じるものを信じる。だからこれも真実だろう。そんな感じで、俺の人生は“なんとなく”で続いていく。

何が書いてあるか全くわからないのは、酒のせいもあるかもしれない。こうして今日も無駄に1日が過ぎていくのである。合掌。