くうちゅうくらげ

-A Boys Named No.28-

SNSが俺をダメにした。

昨日のエントリとちょっと延長することがあったので、mixitwitter(自分がやっていたSNSをやめた理由を無駄に書いてみようと思う。

mixiは、高校生くらいの時(違反)に今の同居人(中・高の同級生/♂)に誘われて入ったのがきっかけで、2005年の冬くらいだったと思う。9割がた、知り合いでマイミクが構成されてた。
学校の同級生とバイト仲間、職場関係、後ちょいちょい趣味関係でメッセが来た人など。

はじめのうちはほとんどの人が日記書いていて、それを見たりするのが楽しかった。映画が好きだからレビューもちょくちょく書いていたし、たぶん退会時には500件近くのレビューたまってたと思う。
自分も日記は2009年ごろまでは頻繁に書いてたけど、途中から週1くらいのペースに。内容はココに書いてあることそのままって感じだったから、もしかしたら少しイタかったかもしれない。

俺は17歳くらいのときから登録してたから、当時は知り合いとか本当に少なくて、内輪でやりたい放題やってる感じだった。
19歳くらいになってから知り合いの数が急激に増えた。
たぶんみんな大学行ったからだと思う。
はじめたての頃に登録してた人はみんな別のSNSにうつったのか、ROMるだけになったのか知らないけど、どんどん更新頻度は落ちてた。
それで、1週間ほど前に退会。

twitterは、2010年のはじめくらいに、職場の同僚が退職するのをきっかけに、中々会えなくなるね→twitterやってないの?的なノリではじめたのがきっかけ。
やっぱりこっちもほとんどがリアルの友達で構成されていて、知らない人もいたけど全く絡まない状態だった。
印象としてはやっぱり企業系の人が多いと思ったのと、大層えらそうなことばかり云っている連中(俺もな)がちょっと鬱陶しく感じた。
mixiとほぼ同時にこの間退会。

揉め事があったから退会したわけじゃない。
もし不満ってほどの不満があるとしたら、それは明らかに他人に向けたものじゃなかったし、自分自身の問題だった。

致命的に感じた「俺をダメにした理由」が確かにあったからだ。

キレイゴトとわかっていながら、ちょっと書きたいと思う。

最近仏教語だということを知ったのだけど、「一期一会」という言葉がある。
確かに、一度交流を持った人間とSNSを通じて仲良くなる、関係を持つ、というのも「一期一会」の一環なのかもしれない。

しかし肝心の俺は、その「一期一会」を得るごとに、他人に対しての感受性がどんどん減っていった。
「どうせ、mixiでわかるのだから、どうせtwitterでやりとりできるのだから」と手軽になってきたのだ。

それが「良くないこと」であることには薄々気づいていたものの、啖呵を切って棄てるほどの勇気がなかったし、やめる理由もなかったのも確かなのだが、この間、あることを機に、ふと、自分の人間関係を振り返ってみた。

その時に急に俺は、画面に並べられるような存在でしかない、自分や他人についてどうしても納得がいかなくなった。
会ってもいない人がものすごく身近に感じるというか、逆にそれがメリットだと云えばそうなのだけど、俺には逆にデメリットに思えたんだ。
あくまで俺の中での「人間関係」っていうのは、こんなに希薄なものじゃないんじゃないかって感じた。
手紙を出して、返事がポストに返ってくるあの感動は、もう得られない。
そう、わかってしまったからなのだろう。

昨日の続きになってしまうけれど、何が有益で何が無益なのか。
何に意味があって何に意味がないのかは本当にわからないし、それは自分が決めるものだと思っている。
だからそういう希薄な付き合いも有益だと感じればそうだし、また逆も然りなんだと思う。

気が付けばリアルに関わらなくてはいけない会社の人や、関わりたい友人などは全て携帯に保存されている。
そんな中、クリック一つでその人の生活や「なう」や姿が確認できるのは良いことなのかもしれないけれど、俺は急にそれが哀しくなってしまった。

「時間には限りがある、だけど俺はこんなことをしながら、「今日はこんな日でした」「よかったね」なんてことを繰り返していていいのだろうか、もっともっと、何か他にあるんじゃないか、じゃあ他にってなんだ、俺は一体何がしたいんだろう」

もちろん学生時代好きだった女の子や、とても仲が良かったけれど些細な理由で会わなくなってしまった友達など、たくさんの人の“今”を見ることが出来る。それは確かに大きな魅力であり、時には自分のモチベーションにつながる。
自分の言葉に反応してくれれば確かに、嬉しい。
そんなことを繰り返しながら、ただ鬱々と反応し、反応されることを愉しんでいたのだ。

そうして考えている中、「本来関わるべき相手は、自然に訪れ、そうでもない限りははじめから必要なかったのだろう、流れるままに流されず行こう」と決めたのだ。
ロマンチストよろしく、確実に今の時代向きではないのだろうけど、俺は目に見えるものよりも感じるものを信じたい。
くだらないかもしれないけれど、自分の中にたった一つだけ残ったであろう信念のようなものだけは、貫いてみたいと思ったんだ。
もちろんそれは、まがい物の信念なのかもしれないけど。だけど自分でそう云ってしまえばそこまでだよね。
自分で自分を見つめなおして、それでもなおそういうものが必要だと思ったらチャレンジしてみようとは思うけど、今はそのときじゃないと思ったから、すぱっとやめたんだ。
こうしてブログでこうやって書いているほうが、性に合っているっていうのもあるんだけどね。

時間は本当に限りがある。
俺は数々の友人が先にこの世を去っていく中でそういう風に感じた。
俺よりも先に逝ってしまう知り合いが多いのは、俺にそういうメッセージを残しているからではないだろうか。
そんな風に自分の都合の良いように解釈するしかないのは、哀しいことだが。

SNSなんぞなくても、俺はここに生きている。
そして君もそちらで生きている、それでいいのではないか。
もしその光が重なることがなければ、そこまでだったと云うことなのだろう。

俺は目に見えないものを感じたい。
そのことで自分に正直になれるという可能性を信じることにしたのだ。