くうちゅうくらげ

-A Boys Named No.28-

徒然に寄せて。

たとえば昨日書いたようなことを1日中考えるに「俺は本当に書く力を失ってしまったんじゃないか」というのは、ただの詭弁だったのじゃないかと思いました。
なぜならば“失ってしまった期間”に書いたエントリが、まあなかなかどうして人間味を帯びていて良いではないか、と感じたからです。
そして、評価がないというのは、怖いことです。
誰かに「今の君はやれている、うん、理由はないけど」と云われていたのなら、もしかしたらまたちょっと違ったんじゃないかと思ったりもするものです。
だけど辿り着きたい場所はそこではないんです。

俺の場合、紡ぎにある程度の評価は必要ですが、叫びに評価はいらない。
だって「ア"−!」だけと変わらないんです、俺の文章。

俺は所謂、音楽を聴かない音楽人であり、詩を見ない詩人であり、本を読まない文章家なのですが、これは思ったよりも健康的ではないかと。
先入観がないのは良いことです、そこに自分の総てが出る。

自由な場所にいながら、まるで囚人であるかのように自由を自らで切り離した上で、孤独に孤独を上乗せして書いていたころとは確かに違います。
自分の好きでその場所に行ったにも関わらず、“自由がない”というたった一つのことに対しての不満がそのまま文章に宿っていたころ。
矛盾も欺瞞もさながら、“今の総てを書く”ことに執着していたころ。
もちろん、完全に棄てたわけではありません。
“遠く離れてしまったこの場所”から見えるその景色も、あながち悪くはないという結果でしょう。
いや、“あながち悪くないという事を自分に認めさせた”だけに過ぎませんが。
もしかしたらこの冬でさえも、俺が心から冬だと認識する瞬間から始まるようなものかもしれません。

そう、もしかしたら「もう書けない、もう戻れない」を自覚した上からが、スタートなのかもしれないんです。
見ての通り、具体的なことを書いて“判られてしまう”ということが非常に嫌だからかもしれない。

今日は諦めたあの場所で再度、ピアノを演奏してきました。
後任の代理だったんですけどね。
2ヶ月ぶりの黒鍵はあまりにも遠く、ぎこちないながらも、拍手をもらえたことは明日からの光悦に。
ノクターンちゃんと練習しておいて良かったですよ。
またこうして、夢の途中に合い間見えど。
哀しいことがたくさんあったので、演奏中に泪が流れてしまったことはナイショです。

風は冷たいけれど、とにかく今日もこうして無駄な1日は目の前を悠然と過ぎ去るのでしょう。