くうちゅうくらげ

-A Boys Named No.28-

飴玉持ってないかな?

俺は、世の中には“わかっている側”と“わかっていない側”の人間しかいないと思っていました。
そして今は他人の夢の中で語りかけます、「俺はどっち側ですか?」と。

今日は部下と飲みに行き、2時間ほど話をしました。
俺はほら“失ってしまった”人間ですから、この男の云う“夢”ってやつを遠目から見ながら、「若いなあ」なんて考えていたのです。
もちろん自分もまだまだ若いぞ。

しかし、この“落ち着き”というのは、昔のそれとは違ってまた、自分にとっては愛しい感情でもあるのです。
それがまた醜いと悟った瞬間に、今の自分の後ろに広がる景色にまた一つ新しい色が宿るのでしょう、そして俺はその“方法”を知っている。

俺がこうして“”付きで文章を書くのは、先日の「判られてしまうということが非常に嫌」ということだけではないのかもしれません。
抽象的に描くことしか出来ないというのは、それもそれで紡いできた心得なのでしょうか。

書くことではなく、描くこと、が俺の指標です。
言う、ということを、云う、と書くのは、俺にとってそれが意味のあることだからです。

俺がありのままに俺を愛することが出来る時期は、やってこないのかもしれない。
だけど誰にも知られたくないものというのは、いつか誰かに知ってほしいことのような気がするんです。