くうちゅうくらげ

-A Boys Named No.28-

沈没くらげ。

俺は今、生きるために最低限のことしかしなくなっています。
仕事をすることと、酒を飲むことです。

仕事をしなければ、お金がなくなります。
お金がなくなれば、そのうち物乞いになるか死ぬしかないので、仕事をします。

酒を飲まなければ、眠れません。
眠れなければ、そのうち倒れて病院にいくか死ぬしかないので、酒を飲みます。

大抵酒を飲むと、まず最初に哀しくなります。
そしてその次は、消えたくなります。
それから、他人がとても好きになってきます。
大体その後に、酒を飲む前よりも他人のことが嫌いになります。
なので、もう酒はやめたほうがいいと思います。

そんなことを考えながら、本日の出来事を何か書きます。
もしくは、また違った形で、想った事を描きます。

ちょうど今は酒を飲みながら、ある一種の矛盾について考えています。

極微な神と自らを冠し「目に見えるものよりも感じるものを信じる」と豪語しながら、都会を揺らぐただのくらげが、文章というものを紡ぐ理由についてです。

文章は言葉の集合体であり、もちろん「目に見えるもの」です。
なので、酒浸りくらげは、何もしないのが本然であるのではないかと考えます。

では、どうして書くんですかという矛盾についての答えは、未だ見つかっておりません。
わかっていることは、くらげは、文章というものに、どうやら価値というものを委ねているのではないかということです。

忌々しいことですが、言葉というものは大抵にして悪事だと思います。
特に「愛」と冠する「それ」は、言葉にした瞬間に「その本然」の総てを失うような性質のものだと考えます。
これは、俺が長年感じていることであり、たぶん30年後も同じように思っていることなのだろうと思います。

言葉にはいつでも毒があります。
その毒が一度体内に回ると、その傷跡から毒を吸い出すことができません。
体内に毒が回るとどうなるか、ご存知でしょう。
いとも簡単に死にます。

今まで、その毒から逃げたことは一度や二度ではありません。
逃げられたことも、一度や二度ではありません。

自ら体内に毒を回し、知らないうちに毒くらげになった自分がここにいます。
みなさんは、毒くらげを駆除したがります。

そのせいで毒が消えるまでは深海に避難するしかなくなります。
哀しいことです。
陽の光を浴びることなど、元々不可能だったわけです。

大体ここらへんまで思考が行くと、そのころには酒を飲む前よりも他人のことが嫌いになっているころなので、頭を閉じます。

頭を閉じて横になると、突然嵐がやってきます。
しかし、嵐が去っても、水溜りは残ったままなのです。

そして、雨漏りはやがて心の中をいっぱいに満たし、父と同じように息子の心も洪水の中におぼれていくのです。

願わくばその雨に、アルコールが入っていることが好ましいです。