くうちゅうくらげ

-A Boys Named No.28-

激情の劇場。

確かに自分という人間は好不調の波が激しいのですが、大抵にして好調の時はなにがしかの不幸に見舞われているときです。
つまり「普通の人」が不調になるような、失敗だったり失恋だったり、そういう最中にいる時こそ好調なのです。
逆にどんなときが不調かと云うと、成功もしてないけど、失敗もしてない、みたいな停滞、「俺って生きてるんでしょうか」というつまらない考えが出てきたときこそ引きずります。

今はどちらかというと、好調なほうです。

もちろん、連勤ばかりで身体はキツいし、精神的にも何か特別なことが起きたというわけではないです。
しかし、先月あたりは常に孤独と自由の間で葛藤を重ねていたので、そのかいがあってか、大分自由に近づきつつあります。

今となっては非常に笑えてきたんです。
何故俺は自分から自由を切り離そうとしたんでしょう。
自由であることがいけない、と。
俺だけ自由であっていいものか、と。

フリードリヒ、あなたは見ていますか。
俺は遂に手に入れようとしているのです。
あなたの云うように、他人の見解に便乗して賢者になるくらいなら、むしろ自力だけに頼る愚者であるほうがましだったのです。
誇りを持たずして生きるよりも、誇りを持って死ぬべきだと。
己の価値観=すべてという「超人」になるべく自己を見据えながら、孤独の中で自由を謳歌するのです。
あなたが構成した一種の真実から永劫における回帰の元に、自分を見つけ、そして。
超人であることを約束します。

まあそんな風に、今は迷子になった子供のように泣き喚いているだけなんです。
「放っておいてくれ、好きにさせてくれ、放っておかないでくれ、好きにさせないでくれ、黙らせてくれ」と。
そして、またひとつ、焦慮せし。

過去を引きずった記憶なんて一切ありません。
ですが、忘れてしまったとしたら、今払っている負債が何によるものかはわからなくなるのでダメです。
何処に借りたかすらまったく覚えていない借金を返し続けるようなものですから。
だからずっと大事なものは、しっかりと施錠して、心の中に閉まっておきます。
忘れないように声を出しながら。

結局、価値観が違いすぎるだけの問題。
またそこに行き着きました。
もう何年も前に、わかっていたことです。

精神的に孤独であるかどうかなんて、どうでもいいです。
今は物理的に孤独であるかどうかが、問題なんです。
傍にいる人がいるかいないか、愛せるか愛せないか、の違いなんです。

でも記憶なんて断片ですから、残りはこころで。
こころで、語り合いましょう。

さて、ちょうどクリスマス前だったので、ひとつ考えていたことがあります。
よくロックなんかで「神なんかいねえ」というフシを見かけますし、フリードリヒは「神は死んだ」とひたすらに云っていました。
ですが、他人に祈って迷惑をかけて生きるのと、神に祈って独りで立ち上がるのはどちらが強いのか。
たとえば日本は教会とかあんまりないですけど、懺悔を誰かに告白するというチャンスはあってもいいんじゃないかな、とか。
まあ他人に話をしたところで、意味が無いことですし、なら神に、的な。
別に“神”っていうのはジーザスに限ったことではありません。
その辺は何かまとまった考えが出てきたとしたらその時に書きます。

確かに俺はフレデリック・ショパンに憧れたし、フリードリヒ・ニーチェに影響を受けましたが、それを実践したのは自分です。
だから、誰に見放されても、世界に棄てられても、自分だけは最期まで肯定してやります。
ここに自分として、神らしく立っています。
他の人も他の場所で、神らしく立っているはずです。

酒を飲んで寝ましょう。