くうちゅうくらげ

-A Boys Named No.28-

「孤」に宿るもの。

木曜日と金曜日が久しぶりに休みでした。

人は何もしないとは云っても、本当に「何もしない」人はいないと思います。
いえ、実際はいるのかもしれないですけど、寝ているのを行動としなければ、起きてはいるけど何時間も何もしないでぼーっとしている人なんて見たことないですからね。
まあ他人と一緒に行動すればそれだけで「他人と一緒にいた」って云う行動になってしまうわけですから、見ていないところでずっとぼーっとしているのかもしれないですけど。
他人に行動理由を説明するのって、とても詮無きことですが、まあ人は生まれてから死ぬまで何もしない日はないんだと考えると全く悲しいことですね。

肝心の自分はというと、木曜日はほとんど何もしてませんでした。
あんなことを前述しておきながら、この出だしは非常に良くないですね。
なので具体的に書くとします。
朝に帰ってきて、起きたら0時を越えて金曜日だったので、寝ていたということです。
仕事をしていたとも云えます。

金曜日は友達と朝からバス釣りにいってきました。
寒かったのでキツかったのですが、なかなか大物が釣れましたので、楽しかったと云えるでしょう。
帰ってから、今日明日のクリスマスパーティの演奏の為の楽譜をちょいちょい書きながら、寝ました。

そして今日土曜日は、起きて、ファミレスに行って、ドリンクバーでジンジャエールとコーラを混ぜるという小学生のようなことをやりながら、悶々とこれを書いているわけです。
仕上がらなかった楽譜を仕上げるためにきたのですが、それの暇つぶしといったところでしょうか。

書いてみましたが、こういうものを書くときは大体にして胸糞が悪いです。

確かに自分は「日々」というものを紡げない人間だと思いました。
たとえば、休みなので寝た、とか、仕事をして疲れる、そこに何の特別があるというのでしょう。

銃が戦争のために作られるように、俺たちも仕事のために創られたと云われれば、違いはないです。
そう、俺たちは“モノ”であり、しかも何かを考え続け、更にそれを吐き出し続けることでしか生きられない、動物よりかも遙かに愚かなもの。

個で在り続けるということは「孤」で在り続けることだと思います。
そこに善悪はありません。
好悪ですらもないです。
少なくとも俺にとっては。

特別だとか、奇抜だとか、そういったモノも、どちらかといえば「孤」により近いものであると思います。
そこにも何もありません。
少なくとも俺にとっては。

そしてそれらが総て「正しい寄り」“だとしたこと”は、紛れもない事実でした。
だから俺が「正しい側」で在り続けたいと思うのは、いかにして孤独で在り続けたいのかだと思います。

仮に自分の周りにたくさんの人がいても、感じることは変わらない。
そう、深海の中を漂っているうちに、次第に自分も大海の一部となっていたのです。

その中で「日々」というモノを紡ぐことを嫌うのは、自分の日々というものが、そのなにがしかによっても他の群衆と何も変わらないという、特別ではないということを、認識したくないだけなのかもしれない。
そう、自分が思っているよりも遙かに、他人も孤独なのでした。

ここまで書いていると、とても居た堪れない気持ちになってきて、まとまりのないままの形で此処に置くことになります。

相も変わらず文章というものは忌々しいものなのです。
自分が何十年もの間考えていることをものの数分でなにものかに変えてしまうからです。

総てが自らの亡霊であり、そして俺はその亡霊といつか、決着をつけようと決心したのです。

久しぶりに朝から起きているので、酒は夜の為に取っておいて出かけることにします。