くうちゅうくらげ

-A Boys Named No.28-

孤独に力を、静寂に翼を、沈黙に彩を、暗闇に光を、愚鈍に罪を、群衆に血を。

確かに自分はヒールであると、頷いた深夜でした。
その刺胞動物は何故か巧妙な罠を仕掛けられたわけでして、ベビーフェイスやヒーローと名乗る相手を見るだけで虫唾が走るのです。
稚拙なコミックでは悪は確実に葬られますが、どうやらこの世界では悪は確実に存在し、そして屠られません。
それはある意味、哀しいことですらあるのです。

突き詰めて云うのであれば、そもそも善も悪も存在しないと思っています。
順義なども存在しない、そんなものむしろクソくらえです。
倫理的に「優しい寄り」は好かれるのかもしれないですが、それが必ずしも救われるとは限りません。
なぜならば、ほとんどのそれらは中途半端なままですから。
それに好かれることと、救われることは、根本的に全く違いますからね。

倫理なんて「絶対者」によって変わるものです。
残念ながら俺は、時代によって価値が変わるものに対して、敬意を払わないことにしています。

ならば今、正義はどこにあるのでしょうか。
それを枕にして寝てやりましょうか、いい気味でしょう、ジャスティス?

どうせ意味なんてないのですから、好き放題やらせてください。
誰の為に、無意味な文章を綴るとしたら、それは正に自分の為に。
そもそも自分は“誰かの為に”を一度でも考えたことがあるのかすら怪しいです。

以前からずっと考えていることがあったんです。
たとえば「人から愛されたいのではなく、人を愛したいのではないか」ということ。
しかしね、それは間違いでしたよ。
そもそもそんなこと本当に思っていたのかすらも、今となっては怪しいんですから。

しかし、俺は未だに「人は愛することが出来なくても生きてはいけるが、愛すればもっと豊かに生きていける」というその言葉を、心の隅では、信じているのかもしれません。

Somebody to love、愛に総てを。
それがドアを叩いて訪れるべき、マイホーム。
いつか自由になれるべきその場所を。
随分と長いこと、そのあるかどうかもわからない場所を探すことについて、腐心し続けてきた気がします。

その通り。
今、すべては、絶望と哀しみを超えて、無になったのです。
やはり思ったとおり、孤独と哀しみの間に自由は存在しました。
何もないということは、それだけで自由ですから。
この自由に関しても、どちらかと云えば「正しい寄り」だということを信じます。

これも自称能動的ニヒリストとしてのひとつの見解です。
そして、総てのニヒリストたちの末路というのは、大概にして野垂れ死にだという事は、ご存知でしょう。

それでも。
影ばかり見つめるのはやめよう。
影ばかり見ていても、真実には気付けない。
影の中には何もない。
必ず、光がある場所にだけ、影はあるということ。
影を見ることをやめれば、それだけで人は自由になる。
時が満ちれば、それに気付いた総ての人々が自由になる。
もう哀しい想いをすることはない。

この果てしない孤独と揺るぎない哀歓を楽しんでいるようにも思えます。
いや、「愉しいんでいる」という方が正しいのかもしれません。

言葉にする、という、非常に狡猾で悪徳な手段で、様々なものをそこらじゅうに鏤めてきました。
そして夢の中で、鏤めたその言葉たちが息を吹き返し、「還せよ、還せよ」と叫び始めているのです。

だから俺は目覚めないほうが美しく在れます。
目覚めてしまうならば、汚れたままで、醜いままで、生きていきましょう。

生きること自体、その総てが、レジスタンスなんです。