くうちゅうくらげ

-A Boys Named No.28-

他人に影響を受けることへの恐怖感。

ここ数日の自らの記事を見て、なんだか少しトゲがなくなった気がしてます。
書き方というか、語尾などに少し余裕が出始めている気がするんです。
あくまで主観なので、見ている人は(いるのかわからないけど)どう感じるかわかりませんが。

まあ、今の気分を表すという主旨の実に個人的なブログです。
自分のそのときの気持ちが露になっているというのは、なんて人間的なことでしょう。

この間、よく記事を見てくれている、とある方が、このブログのことを「エネルギーに満ちているアツいブログ」と称してくれました。
なんというか、自分が書いているものはあくまで“鬱々とした”とか“ひねくれた”とか、良く云えば“アウトロー”で…っていう感覚でしたし、どちらかというと「マイナスなものである」という主観があったので、それはそれは驚きました。
と、同時に、また何か違ったものが見えてきたので、やはり「誰かに見られている」という事実は素直に嬉しいものとして受け取っておきましょう。
主観はあてにならないですね。

良くないですね。
こういう「誰かが読んでいる」を前提にモノを書くのは。

本題に入ります。
かなり私的なことです。

最近、40代前半のとある女優の“エッセイ”たるものを読んでいます。
元来、自分という人間は、本は読むんですが、かなり狭い嗜好の人で、消費するそのほとんどが洋書(しかもジャンルは宗教や哲学ばかり)です。
詩集も好きかな。
好きな作家はスティーブン・キングトルストイヘミングウェイニーチェゲーテといった感じで。

これは音楽でも映画でもそうなんですが、“洋モノ”が好きなんです。
むしろそれ“しか”摂取しないと云っても過言ではありません。
なんというか“洋モノ”っていうのは、あくまで自分の中での前提として“違う星のストーリー”的な概念があるんです。
もちろん外国人というだけで同じ人間なのですけど。
いくら努力しても、そこに直接の感情移入ないし“接続”はできないと考えています。
だからある意味どんなジャンル(実話であっても)でも“ファンタジー的な何か”として捉えることができます。
つまり、私生活や自分の“内部(精神)”を“直接”刺激しにくいです。
と、同時に海外への憧れや素晴らしさを感じさせます。

音楽に関しては、いわゆる“J−POP”は商業的すぎるのでキライなだけです。
しかし“洋モノ”はいくら商業的なものだったとしても背景がわからないですし、そもそも言葉わかんないですよって時点でかなり軽減されますし、それ以外に洋楽のいいところはそのほとんどが“俺とお前のこと”しか書いていないところです。
「この間マンハッタンでチェルシーに会ったぜ、サイコーにクールだったぜ」的な、なんか日記に似た感じというか…。(そうじゃない場合も多々あるとは思いますが)
なんか云いたいことだけを云っている感があって好きです。
もちろんアーティストによりますが。
極論を云えば、歌のない音楽が好きなんですけどね。(ジャズやクラシック)

映画については…。
まあここではあまり書いていないのですが、自称シネ・フィルと呼ぶくらい映画フリークでして、一言では語れないので割愛します。

話がだいぶ逸れてしまいました。
まあ、そんな俺が“エッセイ”です。
しかも日本の女優の。

あ、もちろん興味があったから購入したんです。
まあ“エッセイ”なんてもんは日記(雑文)の寄せ集めなので、その人のことを知らないとまったく楽しくもないわけなんで。
それにその人に興味がなければそもそも手にも取らないものだとも思います。
ブックオフなんかで本を物色してて「さて、特に欲しいもんないし、アムロの自伝でも買って帰るかぁ」なんてことはかなりありえないわけで。

で、まぁ俺はたびたび「その人個人のことを書いているブログが好きだ」などと書いてきましたが、それがピッタリ当てはまったというかなんというか。
まあいわゆる“芸能人”のくくりにも色々とあるわけで、もちろんそのすべてが人間なわけで。
感じ方や生き方は千差万別なんですね。

で、読んでみた感想というか。
驚くことに、これが入り込んでくるんです。
どんどんと。
そして、それは恐ろしいものです。

俺は昔から、“他人に影響を受けることを恐れていた”タイプです。
なぜならば、他人と歩調や見解を合わせることで、自分が消失してしまうと思っていたからです。
もちろん昔から思っているということは、当然ながら今でもその残滓は所々にあるということです。
真に恥ずかしい考えではありますが、稚拙な云い方をするならば「ただのひねくれもの」です。
それは別に家族や教師に教えられたことではないけれど、どこか自分で勝手に思っていたんです。
いわば信仰です、「俺は俺であり続けるんだ」っていう。
そしてその“自分という神への信仰”は度々自らの足を支えました。

しかしね、その、“ファンタジーではなくて、他人の私生活が入り込んでくる”っていう恐怖ですよね。
これは非常になんというか、恐ろしい。

自覚として“アウトロー”(あくまで自称)として生きてきた自分が、いきなり話したこともない他人の私生活に触れるわけですよ。
そしてさらにそれに“共感・尊敬”までしてしまう、その恐ろしさ。
「自分ひとりで生きてきた感覚」が一気に多数に拡大されてしまう、その恐ろしさ。

そんなことを考えながら、「他人の人生を捉えて、自分の人生を顧みる」という初めての経験をしているわけです。

「独りよがり」に価値を見出したい人間でありたいと常に思っています。
確かに、それは変わりませんが。

「俺はなんだかんだいっても、誰かと共存(共感)したいんじゃないか」と、そして「それはもしかしたらこれはとても幸せなことなんじゃないか」と、“イヤでも認めざるを得ない”その状況。

だけどそこにはやっぱり。
“他人は関係がなくて、結局は自分だということ”
“俺は極微な神、だけどお前も極微な神”だということ。

人生はやはり日々、何かを発見していくものだということでしょう。

文章がかなり穏やかになった気がしました。
この手の記事を書くのは本当に久しぶりな気がします。

そういえば“演じる”ということは“狂っている”ということなんじゃないか、ということを考え始めているのですが、それはある程度考えがまとまったら書くことにしたいと思います。

前向きな自分が悔しいです。