くうちゅうくらげ

-A Boys Named No.28-

心に息衝く、華に寄せて。

多分僕が生きている間は、1月が1月であることは変わりないのでしょう
と考えながら起床した午後3時でした。

僕にとって1月とは年のはじめであり、誕生日のある月でもあります。
そして1月が1年を通じて1番好きです。
なぜかといえば思い入れがあるからです。

好悪で人生を判断するつもりはないつもりですが、人生のほとんどは好き嫌いで出来ているようなものだとも思います。

そう、1月が好きだ。
僕がそう思っている限り。

今日は永久に今日で、未来も過去も存在しません。
それだから、日々は、毎日がスタートで毎日がゴールです。

友人ブログの3ヶ月くらい前の記事に“オムライスっておいしい”というタイトルで、オムライスの写真と、デニーズのオムライスが美味しかったという話が載っていました。

「何でオムライスを食べたのか?どんな気持ちでオムライスを食べたのか?何故記事にしようと思ったのか?どういう感情でこの記事を書いたのか?読み返してどう思っているのか?って気になるよね?」
と君に聞いたら、いつものようにけらけらと笑いながら
「考えすぎじゃない?」
と云われました。

その後に、僕は愚かにもお決まりのニーチェのなんたらかんたらを語りかけ
「気になるよね?」
と君に聞いたら、いつものようにけらけらと笑いながら
「ニヒリストになるには覚悟が必要だね」
と云われました。

知っていたことだ。
昔から君に「はう?」は必要ないということ。
会話時間11分42秒も、僕にとっては11.42秒に思えました。
アインシュタイン、まあ人生なんてそういうものなのかね?
だけど、良いかい。
不快は決して語られてはならない。

今日は職場で、仕事にやりがいを感じるかどうか、という実に陳腐な話をしたわけです。
毎日その場から一度も動く必要がない僕たちの仕事は、頭を働かせない限り、違う世界は見えないわけです。
つまり本を読んだり、映画を観たり、まあ他に何でもいいです。
とにかく夢を空想できる人じゃないと全くお仕事にならないのです。
そういう僕は今の仕事に向いているかというと、物凄く悔しいことですが、向いていると云えるでしょう。

僕は一箇所に留まっているだけで色々な世界が見えます。
そういう生活をずっとしてきました。

やりがい?
感じようとしなければ、何処にもそんなものないでしょう。

そうして。
好きな人がいて、好きな人と毎日を過ごすという“既成幸福”について考えます。
この言葉はただ今僕が漠然と考え付いたものです。
どうか色々な人が幸せでありますように、そう、どうか“お”幸せに、と願いながら、自分で自分を納得させて生きるのも段々と飽いてきました。
しかし他者に積極的にコミットしていく能力も、僕は遥か彼方に置き忘れてきたのです。
さて、“お”幸せなのはどちらですか?

だからと云う訳じゃないですが、君に電話をしてみた自分にまた腹が立って、酒に手を伸ばそうとしましたがやめました。

今の僕は、何か哀しいことがあれば、それはそれで生きている意味だと勝手に関連付けて考えるのです。
糸を辿れば過去の僕が。
もう僕ではないはずの僕が何か喋っています。

耳を塞ぎます。
心で感じます。
そして目が醒めれば、今日の僕は死に、明日の僕が誕生していることでしょう。
依存せず、毎日ゼロから始まります。
自分という存在を消して、また創り上げます。
そうそれは、殆どの人には試す必要のない行為であり、殆どの人が通るはずのない路だということを認識しながら。

空気を吸い込んで、少し感傷に浸っている、僕の何気ない1日。