くうちゅうくらげ

-A Boys Named No.28-

生命奪還。

またカテゴリが増えてしまいました。
というのも、なんだか色々と一定ではないからです。
一定ではないというのは、実に人間的なことだと思いますが、それがこと他人を巻き込む状態になった時、“ただの面倒な人”に成り下がることは百も承知なわけでして、そう考えると「間違った正しさ、正しい間違い」というのも本当に存在するんじゃないかなと思ったりします。

もうカテゴリなんてものは不要だとも思いました。
だから、綺麗に整理しようかな、とも思いました。
明日には思っていないかもしれません。
もう何をどうやって書いたら良いのかもよくわかりませんので、気の向くままに何かを書こうと思います。

もう何かを保証したり約束することはやめようと思いましたね。
いや、“約束を守らないことを約束する”ことは出来るかもしれませんが、それはそれでどうかと思います。
約束を守ることが約束を守らないことになりますからね。
もう記事の更新はあまり期待しないで下さいね。
誰も期待なぞしていないかもしれませんが。
まとまったことがあったらその都度書いていくつもりではありますが、気が向かなければ書きませんし、気分で消すかもしれません。
先のことは誰にもわからないというのがキーワードです。

さて、今日、僕は性格が悪いんだろうな、と人生で通算15673回目に思いました。
では、逆に性格が良いというのは何か、と考えるにあたって、やはり自分への“都合の良さ”が上位を占めることを自覚せざるを得ません。
そしてそれに驚きを隠せません。

僕が話したい時に話して、話したくない時には、そっと放っておいてくれる人。
もしそれがパーフェクトと呼ばれる存在なのだとしたら、是非とも巡りあってみたいものです。
どうせなら、全世界の存在の総てが僕の思い通りに動けば良いと思います。
今、僕は性格が悪いんだろうな、と人生で通算15674回目に思いました。

今となっては「人生=求め合い(奪い合い)」なんて事を、真っ向から否定するつもりはないし、逆に肯定したところで何が変わるってわけでもないでしょう。
結局僕の叫びは上手いこと誰にも気付かれることがなく、空へ拡散したのだから、もう戻りたくない場所へは戻りません。
行きたくない場所には行かないし、生きたくない人生を生きるつもりもありません。

サブブログである「こどもうた」に毎日文章を投下し続けています。
もちろんそのせいもあって、こちらも段々と詩的な文章になっていく自分に多少の悔やみを乗せてまでも、たまには「ファック・ユー!」と叫びたくなる夜もあるものです。
胃が痛い。
久しぶりに蹲るほどの胃痛が襲ってきています。

ここのところ、極端に眠れていません。
いつか観た映画「マシニスト」よろしくな体躯を引きずってカレンダーを見るに、この1週間、2時間でも眠れた日があったのだろうか。
眠れない間、何をしているのかも覚えていないです。
ここまで眠れないのは、年始に「超健康体」という、とてつもなく腐った思考に取り付かれて断酒をしたからです。
その“とてつもなく腐った思考”は単純にアルコールが齎す手の震えからきたものであったのですが、眠れなくなるのと、手が震えることのどちらが健康的かということを天秤にかけ始めた辺り、もうおかしな話なのです。

もうストレスは何処からも、受けないようにしよう。
薬などに頼るくらいならば、死ぬ。
僕は自分の精神力のみで生きていく。
生物はその昔から、生きていけなければ、死ぬ。
ただそれだけの話なのですから。

何を目指しているのか、という問に対しての答を出す事が中々出来ません。
僕は能動的ニヒリストを気取りながら、哀しくなるほどの誇大妄想狂であるのです。
この間の休みなぞ、独りで宇宙空間におけるユートピア造りに一生懸命、大事な時間を捧げたのです。

実にバカらしい話。
「動けよ」と云われると全く動きたくなくなる性格である傍らに、「僕は愛されたい」の間違ったサイン。
動かなければ何も始まらないことなんてわかっています。
昔から「言葉より行動」とは良く云われたものではありますが、それには真っ向から反論したいと思いました。
僕からしてみたら「言葉こそ行動」なのですから。

美しい天使の微笑というものは、それこそ甘美に僕の心を揺さぶってはくれるものの、翌日には酷い憎悪を含めた肢体に変わっていくというものです。
不完全な僕こそが良いと愛してくれた人もいました。
だが僕は、みんなが大好きなときもあれば、みんなが大嫌いなときがあります。
それはあくまで主観でしかものを見ない人間の罪と罰であり、自分が大好きなときは全肯定、自分が大嫌いなときは全否定、という、正に醜悪な二通りしかないのです。
それらを「子供っぽい」という馬鹿げた一言でまとめてしまわれても構わないと思っています。
どうせ僕が話したいことの1%も理解するつもりはないのだろうから。

これほどまでになく身体を求めた時期を回想するにあたって。僕は16の時、破れそうなスカートについて、感じたことを思い出しました。
心の内側を少しも知られたくない場合に限って、外側ばかりを求めるのだと。
その夏からセックスは常にコーヒーの中に溶け始めていました。それからと云うものの、情熱は体温を奪い去るばかり。
“愛せない人間”の始まりです。
紳士淑女の皆様、拍手を。

その時で一つの僕は終わりを遂げたのです。
しかしね、そうは云っても、同じような“犠牲者”である、似たような終わった人間と愛を紡ぐことだって出来るわけですよ。
容易ではないと云えどもね。

自分で自分に誓ったことに嘘は吐きたくないと思いました。
しかしね、“誰かの為に”なんて動けるはずもない青年がだね、無理に“誰かに”を強弁したとしても、それには何の意味も持たないのですよ。
それはただの言い訳ですから。“誰かの為”にを気取っていたいんだろう、というような。
でも気取りでもピエロでも、気取り続ければそれは立派な自分自身ですから?
別にそれで良いのだとも思います。
おかしな話ではありますが、結局自分を創るのも壊すのも自分自身ですから?

もうね、僕に残されたものっていうのは自己弁護と侮蔑の想いだけなのかな、って哀歓したりもします。
たとえば「毎日が楽しいのが善」と云わんとする人に対して陰からコソコソと厭味の一つくらいは云いたくはなりますけれど、仮に云い放ったところで“僕の善”とはかなり距離があるわけでして。
でも本当は自分が感じた美しさを“誰からも否定されず”に云いたかっただけなんだろ、ってね。
「すごいね、すごいね」って云われたかっただけなんだろ、ってね。

こうした記事を書くことでさえも、確かに自分自身の支えになった時期もあったけれど、ああ、自分が楽しいだけで人を傷つけるのも良くないですよね。
自分が馬鹿笑いしている横で誰かが泣いていたら、やはり気になるわけで。
だけど気になったところで僕には何の優しさも芽生えてこないのですよ。
時には「死ね」が優しさな時もあるわけですから?
それって疲れるじゃないですか。

「いいよ、いいよ、お前はそれでいいよ」の終点は「どうでもいいよ、お前のことなんて」です。それは僕も同じです。
でも言葉を端折って「どうでもいいよ、お前のことなんて」を最初から云ったら、それはそれはヒール像の始まりじゃないですか。
僕に残されている時間はほんの少しだって云うのに、それはそれは、面倒ですね、人間さん。

明日も仕事ですよ。
最近は、1日18時間以上働くこともそこまで稀ではないわけで。
帰っても眠れないから良いのですけどね。
また文章の形態が変わってしまいましたね。
僕は一体いつになったら、ちゃんとした文章を書くことが出来るのかな。
「こどもうた」は極力紡がないようにしていますが、出てくるイマジネーションは常々大事にしたいわけでしてね。
あれらは「キャン・ユー・ビリーブ・イット?」ですよ、本当に。

血を吐いても仕事は休めないし、多分ずっと眠れずに過労死してもいいんじゃないかって考えているんじゃないかと思いますよ。
まあ“向こう”で待っている友達はたくさんいるわけで、後悔なんてものもないのですが。
呟く場所を自ら棄ててきたので、たまには叫んでもいいんじゃないかとは思いますがね。
「僕も苦しんだよ、君も苦しいんだろ」をね。
共感したいわけではないんですけどね。
出来れば間接的な距離でね。
直接は辛いので。

そんな生活の中で、恋人に頭を撫でられながら「がんばったねよしよし」なんて云われるので、それを楽しみにして歯を食いしばって頑張るわけですけど、それではあまりに女性的すぎないか?
まあそれはそれでなかなか幸せだからいいじゃないか。
はは、そんなことを考えながら、僕は君を幸せにできないままで、いつ死ぬのかな。