くうちゅうくらげ

-A Boys Named No.28-

エフィラ幼生。

僕の携帯電話の“鉄腕アトム”が笑っています。
都会の摩天楼に仕掛けられた数々の罠に嵌っていたら、瞬く間に時間はなくなっていきます。
そして、好きな歌を聴きながら仕事をこなしていても、僕が「クワバラ」だと思っていた人間が「コタニ」で、「コタニ」と思っていた人間が「クワバラ」であったという事実を上手いこと解釈するべき方法は見つかりません。

そう考えるに、名前なんて大した問題じゃないように思えます。
まあ、価値をつけるのは神ですから。
神というのは個々でして、そして僕は神であるにも関わらず全く神らしくはありません。
主よ、父よ、せめてこの連勤から僕を救っていただけませんか。

不幸を売る仕事というものの醜さについて考えています。
戦争があり、悪があるからこそ、稼げるビジネスについて。
少し前に観た映画「ロード・オブ・ウォー」でも語られていたところではありますが、善がなければ悪はなしといったものでしょうか。 

兄:「たとえば、車を売るセールスマンが家に帰って妻に商売の話をするか?
今日は何台の車を売った、とか。
毎日自動車事故で何人もが命を失っているんだぞ。
だから俺がやってるビジネスもな、それと同じなんだよ」
弟:「アニキ、やっぱりアニキの詭弁はすげぇや」 
みたいなシーンがあったはず。
もちろん記憶の隅の曖昧な場所から拾っているので、一致しているかはかなり怪しいですが。
しかし、それにしても、その弟役の役者は、昔から僕の指標でしてね…。
いや、そんなことはいい。
とにかくまあ、人を納得させたもん勝ちかなって思いますよ。
“血液型性格診断”よろしく、あれはどこからどう切り取っても、オカルトですから。
まあ商売も結局オカルトの一種かな、と思いますよ。
何一つ文句なしに買うやつは買うし、イチャモンつけたい人は何にだってイチャモンつけるんですよ。

そういうことを考える日に限って、些細なミスを繰り返して気分が悪いというものです。
一体、僕の正義は何処にあるんだ。
というかまず、敵は誰だ。

人生をある程度穏やかにするために、たまには肯定的な意見から物事を攫んでみるっていうのはどうでしょうか。
何かに対して語るときは「それは違う」から入るのではなくて、「その考えも良いよね」から入るのです。
たったそれだけのことが、“優しい人”を作るとは思いませんか。
僕は思います。
思うだけですが。
たとえば「ダルいウザいキモいムカつく」に対して、僕はどんな感情を示せば良いというのでしょうか。
そうした人たちが、これから子育てをしますよね、すると“こんな親はいらなかった”がその子供達へ。
そう云った将来に対する悲観を抱えながら…
僕は一体何様のつもりなんでしょうかね。

僕は一時期、かなり真剣に、信頼できる友達がいて、愛し合える恋人がいて、収入がある程度得られる職について、まあストレスをある程度発散出来るような趣味があれば、それなりに幸せなのかなぁという、何処から見ても実に健康的な生活ってヤツを思い描いてみたことがあるのですが、どうやらあの信仰にはかなりの嘘があったようです。

結果的に「自己責任」に還元されてしまっては、どんなものが手に入らなくても幸せであり、どんなものが手に入っても不幸せに成り得ます。
で、そのまますべてが自己責任になってしまうのなら、それはもう身も蓋もないわけなのですが、事実なのだそう。
それらは実に哀しいことではありますが、それでも生きていかなきゃいけないなんて、本当に救いようがないです。

自ら棄ててきたにも関わらず、その場所に未だに憂心があるという理由は、確かに“同時に友を失った”という弔慰があるからなのでしょうか。
シンパシーだけの問題だとしたならば、同じ映画館で同じ作品を3時間でも観て共に泪できたならば、誰とでも友達になれる気がするのですが、そうではないのでしょうか。

いや、彼らとは話してしまったから。
そして、思ったよりも重厚で希薄な関係の中なだけあり、「また、今度ね」ではなくて「さようなら」になってしまうことを知っているから。
さようなら、永遠に。そうなってしまうのだろうから。
もちろんそう考えた時、素直に僕にも戻りたい気持ちは芽生えます。
しかし残念ながら、また僕は同じような気持ちになってしまうのでしょう。
哀しく蔑んだ裏切りの気持ちに…。
もはやこのことに関しては、僕は僕のことをまったく信じていないのです。

“僕の生きてきた人生”というものを、胸を張れるか張れないかは別としても、誰かに伝える時が来るのかと云えば、それですら怪しいわけです。
少子高齢化が進み、結果的に人類は滅亡するそうです。
愛の形も言葉の形も変化し、そのうち男も女もなくなって、感情の起伏すらも誰かの操作によって決定できる時代に変わっていくのかもしれません。
想像して見て下さい。
実に素晴らしい世界であります。
平等で戦争のない、顔も心もない人々によるユートピアが完成します。
だから、肉は食っちゃダメだってば。

大きな地震が来るのが早いか、富士山が噴火するのが早いか、それとも僕が死ぬのが早いか。
時計と勝負しましょう。
負けるのは誰ですか、そもそも負けって何ですか。

そうやりながらも、僕は間近に“危機の始まり”を見ているのだと思いました。
僕も大体にして危機に近いわけですが、まあたとえばそれらを共有する時に「w」なんかで表現される世界に僕は絶対いたくないわけです。だからと云って、そういった一つ一つに面と向かって“元気”を発揮するティーンエイジは終わったわけですから、傍目から応援だけでもさせて頂くことにしました。

確かに僕は、「そんな人生で楽しいのかな」と思ったこと、一度や二度ではありません。
どうも僕は人生というものに過度の期待をしすぎているみたいだ。
しかし、この人生は誰とも比べられるわけでもないので、“愛をくださいをください”という陳腐な言葉遊びの一つでもしてみたいものです。
与えてくれるならば、ワン・ステップ・クローサー。「やるなら今しかねえんだよ」は、確かに自信と希望に満ち溢れた、素敵な言葉だと思います。

さて、君の誕生日が近いということで、“プレゼント交換”という実に幼い企画を二人で持ち上げて、少しエロティックな個室バーなんかに星のペンダントを持って行ってみたわけではありますが、あのチョイスはどうだったのかな。
結局僕は恋人から大好きなブランドのブレスレットをもらいました。
ちゃんと覚えててくれたんだね。
話によると「コレ以外つけることは許さない」らしいです。
どうもありがとう、これは僕にとっては最高の毒だよ。
それから「束縛するかしないか」というチープな話題において激越したあと、結局は今二人でいられるだけで満足だという結論に落ち着いた辺りは、もう僕たちの“それ”は「ロマンチック・ラブ」ではなく「プラトニック・ラブ」なんだろうな、と自覚せざるを得ないわけではありますが。

クソ新宿という街にて。“お互いの”趣味を何も持たない僕たちは、いつも目的もなくフラフラするのです。
たまに店に入っては、このぬいぐるみはかわいい、とか、この香水の匂いは良くない、とか。
ディスク・ユニオンの横で学生が制服姿で喫煙しているところを見ていましたが、かつてそこに在ったはずの僕はもういませんでした。

そう、僕は知らず知らずに圧殺されていたのです。
そうして、変わり映えがなくて圧殺されてしまった元少女と、変わり過ぎてしまって圧殺されてしまった元少年は、相変わらず0時前にはお別れをするような健全な遊びをするのです。
心も身体もお元気に、セックス抜きで語るその恋愛に関しても少しずつ赦免してきていて「来週は来れないから再来週ね」と云う君の背中を見ながら、思うんです。
君は毎回、同じ背中をしているんだね、と。

帰り際に、全くプライドのない毎日だが、ゲームや文庫やインターネットの中に埋没する人生よりもはマシだと思っている、ということを“ストレート”に伝えたら「すごいね」と云われたので、気分が良くなって、キスをして、「またね」と手を振りました。

家に帰ってから君と撮った写真をPCに取り込んでみると、なんだかほとんど僕は片目をつぶっているな。
気持ち悪いぞ、おっさん。