くうちゅうくらげ

-A Boys Named No.28-

フォーチューン。

いつも僕は、午後3時に起床して『名水珈琲』というとても美味しい珈琲を飲みます。
BGMはたまたまかかり始めた、keaneの『Nothing In My Way』、
風呂に入り、服装を決めて、髪形を整えて、家を出る時間まではパソコンをいじってお気に入りのブログを見たり、PSPをやったりしながら、自分からアクションを起こさなければ何の特別もない、他の人と似たような、あくまで“似たような”形をしながら、まるで違う形の“僕の1日”が始まります。

僕は起き上がり、呼吸をし、珈琲を飲み、音楽を聴き、電車に乗り、仕事をし、何かを描き、寝て、起き上がります。
他の誰かも僕と似たような事をしながら、似たように起き上がります。
途中で死んでしまう人もいるでしょう。
産まれる人もいるでしょう。
そうした営為の総てが。
そうした必要悪の総てが、僕にとってはレジスタンスであるわけです。
生きること自体に意味をつけるとしたら、日々は抵抗そのものです。
ならば僕の書いているこの“かたちなき文章”はそのまま“犯行声明分”となるわけです。
「僕は今日も生きる、文句あるか」という。

小さく行きましょう。
小さく生きましょう。
ただ自分にだけは嘘はつかずに行こう。
生きよう。
彩を与えよう。
何の変哲もない、僕の1日に対して。できればささくれず、上を見て、ね。
そんな風に自分を元気付けるしかないのです。

僕は相変わらず大海の底を揺らぎ続けるくらげでしかないですが、そんなくらげにも生きる理由はあるんです。
人は生きる理由がなくなったとき、結構簡単に死ねます。
いえ、食事をしないだけで死ねるという時点で、僕にとって人生は毎日がレジスタンスなのですけどね。

一つ付け加えるならば、この文章はそのうち意味を成します。
僕自身によって、魂を吹き込みます。
他人に意味なしと云われても、僕にとって意味ありならば、それは間違いなく正義ですから。感じたことだけでいい。
今はそれだけで良いと思える、大事な1日。

そんな誓いを立てながらも、PCに備え付けてあるスピーカーの調子が悪く、「これだからヤスモンは!」と思うにつけて、僕の心はささくれています。
今日はそんな目覚めでした。
おはようございます、という時間に目覚めることができるのはいつの日になるでしょう。

どうでもいい話ですが、僕はワードのエディタの背景の色を黒にしています。
特に意味はありませんが、まるで黒い空に星のような何かを打ち付けているようで、気分がいいです。
埋めなきゃ埋めなきゃ。
僕の毒で、埋めなきゃいけない。
この黒い闇を、黄色いかたちで。
というようなね。
誰にとっても意味はありません。

完全に主観ですけどね、たとえば「わたしはたばこが嫌いです」の表現に対して、何か云いたいことがあったとして。
身体に悪いからとか匂いがつくからとか何でもいいですけど、「それじゃあ貴方が乗っている車の排気ガスは身体に悪くはないのですかね、貴方が使っているスプレー缶だってオゾンを汚しているんですよ、で何でたばこはいけないんでしょうね、単にお前が嫌いなだけだろ!」と実に稚拙な屁理屈を並べることもできるわけですよ。
「いいじゃんたばこかっこいいからいいじゃん」なんて思っていたりもするわけですけど、恋人が云う「あたし喘息だからタバコはやめてほしいの」で禁煙を始めるわけですから、本当に人は現金なものなんだね、と思うわけです。
そこまで考えた上でようやく“本当の理解”を示すことができるでしょう。
「言葉なんて意味はねぇ」ってことにね。

極端なんです。
何をするにしても。
偽善なら最後まで偽善者として突き通せよ、と。
しかしね、それを自分に当てはめられた場合どうですかね。
生き辛い、面倒くさいって、それが来るんじゃないでしょうかね。
ここまで行き着いた上で、考える言葉は「極論はあてにならねぇな」ってことです。
ですから、何事も黙っているのが1番だと思ったのですよ。
で、僕はいちいちここまでを関わる人、すべてに説明しなければならないのですかね?

断言しましょう。
人生は総て好悪で構成されています。

せっかくなので端折らずに、一度書いておかなくてはならないでしょう。
僕はおよそカジュアルな「しにたい」の感情に対しては、肯定することにしてます。
何故ならば、死ぬことは当人の救いになる場合も大いにあるからです。
それこそ“もしかしたら”がある場所はもはや宇宙と死後の世界だけですから。
なので、よりカジュアルな「しにたい」は、何度も苦痛な夜を越せるだけの蓄えになることでしょう。

孤独に飲み込まれてしまえば、存外、其処は居心地の悪くない場所だということに気づくでしょう。
但し、僕は現在を生きる人間というその理由だけをもってして、その考えには賛同しないことにしています。
過去に想いを馳せることは悪いことではありませんが、その生き方は好きではないですから。

ところ変わってここはファミレスです。
奥の席の奥様方が、旦那と子供について語っておられます。
とても“お”幸せな光景でございます。
こんな日に限って、音楽を聴く道具を家に忘れてしまいました。

僕は自立している人が好きです。
いえ、逆に云えば、自立していない人が嫌いです。
自立、という言葉を使いました。
これは、自分で金を稼いで自分で生活している、という意味ではございません。
僕がそう呼ぶそれは、誰にも自分の価値観を委ねないということです。
自分の価値観を子供に委ね、配偶者の愚痴ばかりを云う人。
偽りの言葉で、偽りの優しさを提供する人。
誰かの視点からしか、物事を云えないような人。
あなたたちが選んだ人生だから、それでもいいのかもしれませんが。

哀しいことの、何が悪いのですか。
苦しいことの、何が醜いのですか。
たったの一人で、一人の人間として、自分が広大な大地に裸で立っている。
それだけで寒い日もあります。
暑い日もあります。
食事にありつけない日もあるかもしれません。
それでも、そこに宿る総ては、美しいのです。
いえ、違いました。
嗚呼、僕がただそういう生き方を選んだだけの話でした。
だけど、僕はそれなりに自分自身を納得させながら、生きているのです。

そんな風に考えながら、家路を辿りました。
部屋にポツリと置いてあった、寂しそうなアイフォンを見て、携帯電話を携帯していないという事実に気づいた、小さな罪悪感。

さて、「よく話が脱線するわね」と君が云うので、僕は話を脱線させない方法について考え始めました。

たとえばこの文章、どうですか。
この脱線事故は、何分の遅延で、何分の損害なのか。
僕の存在は、いったいどのくらいの経済損失なのか。
いったいどのくらいの黒さで、いったいどのくらいの悪さなのか。
そして世界にとって僕が必要な割合は何パーセントなのか。
そう考えつつ、とにかく自分を落ち着かせます。

深呼吸。深く吸い込んで、同じだけの時間、吐く。
そして、大きな声で叫びましょう。
誰にも聴こえない叫びだとしても。

ささくれた僕は、君に「随分偉そうな事を云ってくれるね」と云った直後に、しまった、という気持ちになりました。
そのときの一瞬で僕は“一方的に愛する哀しさ”をストレートに受けてしまったのです。
まったくの片思いである時のその哀しさと、“応えてくれているはず”のその哀しさとの差異は、何故こんなにも違う色を宿すのでしょう。
本当に僕は、他の誰かが思っているよりも遥かに愚かしいのです。
そしてそのことを自分自身が誰よりも知っていることを理解して、もっと愚かしくなるのです。

喋りつかれた君がお風呂に入っている間、僕はこれから着るであろう洋服が冷えていたのに気づき、ストーブの前で温めていた。
将来僕に子供ができたら、冷えた洋服を温めてあげられる大人になりたいと思いながら…。
しかしどうやら君が戻ってくる前に疲れで眠っていたらしい。
膝枕で眠りながら、変な夢を見て、僕にも君にも永続性は無いということに対して、僕たちは一緒に泪を流した。
輪廻転生などクソくらえで、もし本当に永劫回帰のサークルの中に還るとしたら、“また”こういう日が訪れるのだと思うけれど。
僕にも偽善や欺瞞ではない“守ってあげたい”が出来てきたのかな。