くうちゅうくらげ

-A Boys Named No.28-

冷たい雨を背にして。

昨日の天気は、正義、時々、悪。
今日は、愛しさ、後、涙。
明日は、晴れ、時々、哀しみ。
降水確率、60%。

僕たちは良かれ悪かれ、明日の思い出を作りにいく。
それがとても哀しいことに感じ始めたのはいつからだったか。僕はね、この哀しみを一生抱えて生きていくしかないんだなって確信したよ。
言葉にすれば綺麗に聴こえるかもしれないけど、実際はそんな要素どこにもない。
日々重ねていくルーチンワークの中に、美しさの欠片もなくてね。

“死にたくない”ということがそのまま“生きること”に繋がるのだとしたら、それほど素晴らしいことはないだろう。
もし毎日が自画自賛だけで息衝くものだとしたら、それもとても素晴らしいことだよ。

明日も生きて此処に立っているという事実はそのまま死にたくないという事の体現であり、その体現は僕が目指しているレジスタンスの思想の根本に立ち上がる。
なぜならば僕にとってのレジスタンスとは、反抗的に何もしないことであり、且つ、攻撃的なニヒリズムに過ぎないから。
僕は僕なりの正義を振りかざしながらこれからも行く。
行き着く先に待っているもの、それはやはり圧倒的な負け戦なのだろうけど。

春の冷たい雨を感じながら 
「僕は散々言葉を介して生きてきたんだな」 
そう思った。
五感で感じえる全てを、出来る限り言葉にしてきたんだな、って。
正確には話す相手がいなかった時期もたくさんあったから、“文字にしてきた”というのが正しいのかもしれないけど。
そうしながら、哀しみと悦びが融合して決起したときに、気付いたら、ある程度セオリーに沿ったやり方で、僕は僕を裏切っていた。

家に帰ると、二つのマグカップが並んでいた。
そのことに疑問に感じるのは、今に始まったことじゃない。
喉元から出てきそうで、その度に飲み込んでいる言葉がたくさんある。
そうして今夜も「そっか、僕たちも離れていくのか」と思うんだ。

僕は考える。「どのくらいの素晴らしい言葉を手にしたら、これを終わりにすることが出来るんだ」って。
そんなことを考えながら、僕は明日も言葉を介して生きていくんだな。
願わくば、悪気の無いインスタントな言葉で。

はは。
そうだね。
去って行く小さな女性の姿に哀愁を感じながら僕が泪したのは、「愛を愛だと感じられていれば―総ては無にではなく愛に帰するということを知っていれば―」
もし僕がそういう事を感じられたなら、もし僕がそういう風に生まれていたのなら、きっと素敵なことだったんじゃないかなと思ったからなんだよ。