くうちゅうくらげ

-A Boys Named No.28-

人間蹂躙。

 仕事を辞めてから約2週間以上経ったけれど、思った以上に退屈だ。仕事をしていたときは、本を読む時間がもっと欲しいとか、勉強する時間があればいいのにとか、ゲームする時間が欲しいななんて思っていたりしたけど、それを以ってしても退屈だ。その証拠に寝すぎてしまっている。睡眠時間と活動時間が同じくらいになっている。

 僕は考える、というよりもやっと考え始めた。社会人時代の僕の仕事が終わってからの3時間と、今の僕の持て余している24時間のどちらが有効的に使えるかという問題。この問題は小学生にも解けそうなほど単純に見えるものの、僕はどうやらこの歳になってもこれを理解できないらしい。でも僕以外にもわからない人は多いと思う。だって何しろこんな贅沢な問題を提示してくれる人生こそ割と稀なことだと思うからね。

 だからそんな暇を持て余している僕は今日、ブログのカテゴリの整理をした。こんなものは部屋の掃除と同じで、見に来る人がいるとかいないとかの問題ではなく、思いついたら一気にやるものなのだ。そういえば前から疑問だったのだけど、どうしてカーテンって開けるんだろうな。外はすぐに暗くなるっていうのに―

 

 話はぜんぜん違うけれど、一生孤独にならない、もしくはなったことがない人って意外に多いんだろうな、とか考えていた。中学生の様だとどうか笑わないで欲しいものだが。生まれてから大学卒業まで家族と実家で暮らし、実家暮らしで会社員になり、そして結婚して家庭を持つ人。僕はといえば高校途中から半ば家出のような感じで24まで一人で過ごしてしまったわけで、そんな人と話が合わないのは当然だ。これはある程度の免罪符になるな。と同時に、ある一定の哀しみも抱えながら。

 そもそも「話が合わない」というよりも、道化として帳尻を合わせようとすることはいくらでも出来るわけだし、要はそれをするかしないかの問題だとも思った。それをするかしないかの選択は傲慢ながらもこちら側でいくらでも出来る。敢えてしようともしないことを老いの一種だと感じるならば、ある意味一生道化として立場を弁えるしかない。だから僕は「人を騙すこと(もしくは自分を)は一種の優しさ」だと心得る。そして立場を“違った方向”で弁えた場合、全てを諦めた人こそ、全知全能の優しい人だと思う。もちろんこれは皮肉めいた意味で、くそくらえだとも思う。なぜならば時に人生というのは道が1つしかないのだから。

 

 云うと決めることも勇気のある決断であれば、云わないと決めることも勇気のある決断である。そうやって僕はできる限り有意義に自分に言い訳を続ける。少なくとも、今のところは。