くうちゅうくらげ

-A Boys Named No.28-

幸福が蔵する危険。

もうずっと前から、腹の調子が悪いのだが今日はいつもよりも一段と悪かったのでせっかく早起きをしたのにずっと家にいた。

 

1年前のあの日に、僕は哀しみを棄てる覚悟をしたつもりだったんだけどな。僕は其処に、一定の喜びと美しさが残ればいいんです。本当にそれだけで。もう自分が悲しかろうがなんだろうが知ったこっちゃないんです。

 

自分がどれだけのことを仕事のせいにしてきたんだろうな。そういうのが今となってはたくさんわかる。だから僕はあのまま仕事を続けていれば良かったんじゃないかとたまに思う。逃げられる場所が其処しかなかったんだということ。そういうものは全て、終わってしばらく経ってからわかる。「あいつは本当はいいやつだった」「あの子は本当は素敵な子だった」そういう気持ちは何度も経験しているはずなのに、同じことばかり繰り返してしまう。ふと考えたとき、本当は僕はその繰り返しが好きなんじゃないかと気付く。だけどやっぱり、とも思う。

 

当時は選択肢がたくさんあったんだと思う。だからこそ、若さというのは罪なんだろうな。「関係性を貪るような」とかつての彼は、かつての僕は云った。そう遠くない過去に、確かにそう云った。そのうちその“関係性”は枯渇してしまうだろう。僕は“それ”が心底インターネットだけで繋がれたものではないと思いたい。そんなものはクソくらえだと思いたい。

 

インターネットは哀しみ。オンラインは哀しみ。友人は哀しみ。関係性は哀しみ。僕自身がそもそも哀しみ。だから、悲しい。

 

これからの世代がインターネットに属していくのが哀しい。そして、インターネットがなくても美しいんだよと云える人がいなくなるのも哀しい。僕が“そちら側”に立てないことも哀しい。

 

僕は今でも云うのかな。「そのうち、全ては愛とかいう形も為さないものになるんじゃないかな」って。「よくわからないけど、そういうもの凡て愛っていうんじゃないかな」って。「愛に総てを懸けるよ」って。この先、誰かにそんなこと云うのかな。もしそう云うとき、それはただふと、出てきてしまうような状況なのかな。それとも、ずっとリハーサルしてきた御伽噺を聞かせるような、台詞としてなのかな。どちらにしたって僕がいつかそう云えるような時が、来るだけマシなんじゃないかなと思えてくるよ。

 

『愛とか云ってるけど、愛なんてどうせ知らないでしょ』誰かにそう教えてもらったとき、僕はどんな顔をしてたっけ。なんて言葉を返したんだっけ。今なら云える、今だけなら云える言葉ってどんなものだろう。