くうちゅうくらげ

-A Boys Named No.28-

ばいばい。

選挙に行った後、晴れた日の公園で、ただひたすらぼーっとしてた。文字通りなにもしなかった。タバコを吸いながら、音楽を聴きながら、ひたすらぼーっとしていた。特に何があったわけじゃない。いつもどおり、退屈でただの暑い日だ。

 

僕のゼンマイをきゅるきゅる回すと、勝手に悲しい思い出がでてくる。オルゴールみたいに何度も何度も反復しながら、同じ思い出を繰り返す。たまに音飛びする。

 

大都会のネオンとネオンの間にある、小さな風車が回るバーのレコードは少し疲れていた。一日中ジャズに没頭した少年も疲れていた。出迎えてくれた仲間たちと一緒に、少し強いウイスキーとインドネシアから仕入れてきたという自慢の葉巻をやって、ガーシュインは実はクソだった、おまえのタトゥーにはそんな意味がある、だからそんなクソに乾杯、とよくやっていたものだ。

 

ブラックジャックは従姉妹のねえちゃんが強い。そんなねえちゃんを一度は倒してやりたいと演奏家たちは意気込んでいた。マスターがゲラゲラと笑いながらカウンターでスコッチを作る中、僕はグランドピアノを前にして、姉ちゃんのお気に入りの曲を一つ、プレゼントしてみた。勝利の歌。ねえちゃんが後ろから僕に見せるガッツポーズ。負け込んだサックスの奏者は呂律も回らないほど酔っぱらって、地面でのたうち回っている所だ。

 

学校からも社会からも見放された僕たちの居場所。そんな僕らは常に「眠らない街」に取り残されていた。海岸線の辺りに見える観覧車は、いつまでも回っている。僕らの“クソ”ガーシュインは止まることを知らない。

 

僕らはあのステージの上で闘っていた。まばらな客と大事な人を相手に、確かに闘っていた。何の指標にもならない夢の欠片をつなぎ合わせるように、音と音が拒絶しあい、一瞬の火花が散る。みんな一人だった。客も僕らも、一緒のようで一人だった。全く違うジグソーパズルのピース。それらが全て軋み始めるとき、僕らは「美しかった」、少なくとも自分たちだけはそう思っていることが出来た。周りの世界は忙しい。時間だけが経過していく。だけど、その場所だけはずっと時間が止まったままだ。僕はねえちゃんが喜んでくれたら、それだけで良かった。

 

人生は、溺れる者は溺れてしまうから。どんなことを願ったって、溺れてしまうから。僕は生き残って、君は溺れてしまったから。ただ、それだけの話。

 

だからねえちゃん、僕は死に行く君を見ながらさようならと云った。腐るほど云った。葬式でも起きていても夢の中でも酒に酔っていても雨でも晴れでも泣いていても笑っていても何度も云った。

 

だけど思い返すと今も、本当にさようならは云えていない気がしてどうしようもない。だから今日も晴れた蒼い空に向かって声に出して云ってみた。

「ねえちゃん、さようなら、ばいばい」

 

だけど僕は今でも本当に間近に、明日とか明後日とかに、また髪を切った君がやってきて「いっそのこと坊主にしてみれば」という僕に「いやです」と云いながら走り回る姿を見られると信じて止まないからだ。

なんだろう、これは不思議な気持ちで、猫のようなうさぎのような君の髪を撫でられるような気がして、本気で怒ってくれるような気がして、仕方ないからだ。忘れ物が驚くほどたくさんあるんだよ。その中に。

 

なんで今年の夏はそんなことばっかり考えちゃうんだろう。たぶんずっと、仕事が忙しいっていう名の現実逃避で避けてきたからだよなあ。風俗とか行って自分はクズですねって思いながら忘れようと努力してきたんだけどなあ。

 

外も空も夏ですね。僕はそんなくだらないことを云う相手がずっといたんだなあと感心している。うんうん。

 

「外も空も夏ですね」『そうですね』

「眠くなっちゃいますね」『私は元気です』

「夢でも見ましょうか」『ロマンチストは嫌いです』

「子守歌を歌ってあげましょう」『いやです』

「サティを弾いてあげましょう」『聴きたいです』

「君が好きです」『私もです』

「うそです」『私、怒りました』

 

なんだかなあ。夏なんだよね。僕だけの夏なんだよね。驚くほど自分しかいねえなあ。朝が来ると、とんでもない暑さだ。昼が来ると、とんでもない蝉の声だ。夜が来ると、とんでもないネオンの光だ。毎日とんでもない苦しさだ。隣にいるのは悲しみだ。

 

どうして忘れちゃうんだろう。どうして忘れないんだろう。どうして思い出すんだろう。どうして思い出せないんだろう。つらいから曲を描く。つらいからガーシュインを弾く。だけどよけいつらくなるだけだ。つらいから毎日起きる。つらいから今日も生きる。だけどなおさらつらくなるだけなんだ。

 

感情がただひたすらトレモロする。繰り返し、繰り返し。どうしてこんなにつらいんだろう。そんなこと考える自分がつらい。夏が暑いのがつらい。涼しい場所がたくさんあるのがつらい。君がいないのがつらい。君のことを思い出すのもつらい。笑顔もつらい。泣き顔もつらい。まぶしい太陽がきつい。全てに君の面影があるのがきつい。大好きだった夏が大嫌いなものに変わっていくのがきつい。大好きだった明日が大嫌いな未来に変わっていくのがきつい。

 

ゼンマイを回すと、思い出す。あの子は少女で僕は少年だった。一緒に貝殻を拾った。一緒に砂浜を走り回った。ずっと一緒だった。芝生の上に転がって、2回キスをして、逃げ回ったその女を追いかける。水族館で腕に絡まって幸せそうなその女と、一緒に歩く。でかい船を眺めながら「乗ってみたいねえ」と云うその女の横顔を眺める。髪を引っ張られて「いたいたいたーい」と云うその女の手を強く引く。「タバコはダメです」と買ったばかりのクールマイルドをゴミ箱に捨てるその女に怒る。飛行機の窓辺から悲しそうに外を見るその女の魅力に惹かれる。最期は白い花束に囲まれたその女に対して涙を流す。

 

稼働をやめると、当たり前のように君の中に入っていった僕が、当たり前のようにまた僕に戻ってくる。また僕を独りにする。

 

ここは夏です。ただどうしようもないほど夏です。いらない憂鬱を受信しています。欲しくない陰鬱を発信しています。ネジを巻いて、誰の得にもならない私心を送信しています。会いたいです。話したいです。「サーバーエラー、宛先は存在しません」

 

『だいじょうぶ、怖くないから』「ねえちゃん、ぼくは怖いよ」

『ほら、足も付くから』「流されたら戻ってこれないよ」

『だいじょうぶ、傍にいてあげるから』「やっぱりぼくは、怖いよ」

『それじゃあずっとそこにいなさい』「待ってよ、ねえちゃん、置いていかないでよ」

 

待ってよ、ねえちゃん、置いていかないでよ。消えたい、死にたい、どうしようもなく今、会って話したいです。ねえちゃんと一緒にこの夏の夜空を一緒に眺めたいです。ねえちゃんとまた一緒に花火大会にいきたいです。ねえちゃんのいる世界でやり直したいです。ねえちゃんのいる世界に戻りたいです。ねえちゃんがいてくれればほかにはなんにもいらないです。僕はどうしようもなく、ねえちゃんと話したいです。せめてもう一度ねえちゃんに僕の弾くピアノを聴いて欲しいです。だけど、もう、無理だな。もう、無理なんだな。もう、会えないな。実感したくないけど、絶対、無理なんだ。

 

こういう風に考えると、なんだろう、明日起きるのがほんとつらい。気持ち悪いです。こんなこと考える僕が気持ち悪いです。未来とかほんといらない。だからいつまでもこんな場所にいちゃいけない。ほんとうにつらい。ほんとうにつらいと思うことがつらい。早くそっちにいかなくちゃ。見えない場所。誰も聴いてないピアノ。誰も見てない私心。独り言。こんなの早く終わりにしたいな。見上げたらどこまでも遠い、手の届かない蒼い空。泣いてる場合じゃない。こんなの早く終わりにしなくちゃ。