くうちゅうくらげ

-A Boys Named No.28-

ライフ・ワズ・ビューティフル。

今日もクソ長いので、間違って寄ってしまった人や体力のない人は去ってください。

 

あまりにもブログを放置していると更新する習慣がなくなって「ああ俺もブログなんてやってた時期があったなあ」なんて思っちゃうのも時間の問題だと思ったんで、なんか適当に書きます。ここんとこやたらと鬱々としていて、人様のブログなんて見る元気もありませんが、徐々に色々と取り戻してきたらまた閲覧しようと思ってます。

 

まず最初に、一応生きてます。喉笛にサバイバルナイフがあと数センチで届くか届かないかの距離だったんですが、一応生きてます。今月はなんだかんだで演奏会やらバイトやら結婚式やらで無駄に予定がたくさんあるので生きている予定です。8月になったらわかりません。あとはこの調子でねえちゃんのこととか出来る限り思い出さないようにがんばれば、なんとか生きていけるはずです。まあ人生は単純なものだと思いました。まんこにちんこが入れば子供が出来ますし、「すげーブスですね」とか「すげーデブですね」とか云うと女の子は去っていきます。そして、大好きな人がいなくなれば辛いし、ナイフが喉に刺されば死ぬ。それだけの話です。

 

ここ数日で自分にとってこのブログとは何なのかってことを自分なりに5分くらい考えてました。まあシンプルに云えば独り言です。僕は他のたくさんの幸せな人と違って話す相手がぜんぜんいませんから、独り言を書いてます。ある意味、話す相手がいたりするとそれだけで満足してしまうので、更新はしません。自覚的にというか、今までの経験上そうなので、そうらしいです。どうして独り言を公開するなんてバカみたいなことをしているかというと、独り言って忘れちゃうからです。昨日云ったことや思ったことややったことを忘れてしまうと、僕がわざわざ努力して独りになった意味がないから書きます。だから僕は僕のことや僕の大事な人や心の中にいる人のことしか書きません。たまに他人のことを書くこともあるかもしれませんが、そのときは「お前が好きな俺が好き」みたいなニュアンスになると思うので、やっぱり自分のことになります。少なくとも大衆に向けて何かを発信するとか、なんか世界や政治に凄く「役に立つ」ことなんて絶対にしないです。なぜならばそれらは僕にとってまったく役に立たないからです。

 

文章が長いのもそういう理由です。人に何かを伝えるなら短く簡潔に要点を抑えればよいのでしょうけど、僕の文章は誰かに何かを伝えるためのものではないので、クソ長くなってます。本当に独り言で、書いていきながら考えていることも多いので。そして「見ている人が前提」ということになると、僕は云えることが何もなくなってくるので、それはそれで困ります。なので見ている人はいないもんとして色々と書きます。だからこんなクソを見る人も物好きだねえと思います。でもまあ、それでも無駄に見てくれてる人なんかも若干名いらっしゃる感じがするので、とりあえず「やめる」って選択肢だけは考えないでおこうと思います。今のうちは。生きているうちは。

 

ここまでの長い文章が前置きです。これから昨日の日記とかを書きます。

 

昨日、家でぼーっとしていると、昔、音楽関係で少し仲良くしていた、銀行員というつまらない職業のつまらない男と結婚したつまらない人妻Mが、いきなり「家のピアノの調律をしに来い」というので自分でやれよと思いつつも、渋々重たい腰を持ち上げて、新居にお邪魔してきました。25階建てだったんですが、こんな凄い家で毎日つまらない旦那とつまらないセックスしてるなんて羨ましい限りです。AVなんかではここから「こっちのほうも調律しておきましょうか」と、セックスしてご懐妊なんていう流れになっても不思議じゃないのですが、人生はAVではないので、そんな悦ばしい流れは全くありませんでした。お駄賃をもらえるわけでもなく、むしろ電車賃をくれるわけでもなく、メシも奢ってくれませんでしたが、まあそれはいいでしょう。

 

帰りに楽器屋に寄って、ギターの弦を買いました。楽器屋ってのはたくさんのギターとかが置いてます。僕はお遊びの延長でギターとかもほんの少しだけ弾けたりするのですが、楽器屋に行くとついついヴァン・ヘイレン顔負けのスキルでエレキギターなんか弾いてみたいという欲望に刈られます。しかし僕はというと、ヴァン・ヘイレンは愚か、ギターなんぞ叔父さんにしか教わっていないので、いわゆるツーフィンガー、スリーフィンガー奏法なんていう60年代を彷彿とさせるものしか出来ません。

 

まあ一口にギターとは云っても、僕が弾けるのはエレキギターなんて洒落たものじゃなくて、クラシックギターアコースティックギターといった、西部劇に出てくる詩人なんかが良く持ってるアレです。かっこよさの欠片もないあの楽器ですが、弾いてる方はというと案外そんなに悪い気持ちはしません。すごくがんばれば、さだまさしの物真似芸人くらいにはなれるのかもしれません。僕は実はさだまさしだったんだ、とかいう妄想を繰り広げていると、思えば人前でギターとか弾いた例がないということに気付きました。いや、あるにはあるんですけど、妹の前で妹をバカにする某有名曲の替え歌を歌ったりして感動と恥辱のあまりに泣かせたくらいのもんです。

 

というか良く考えたら、ピアノなんて陰鬱な楽器じゃなくて、ギターという華々しい楽器にハマっていたら、僕の学生時代とかモテモテだったんじゃないかと思います。叔父さんが「男は黙ってクラシックギター」とか云いながらカーペンターズとかひたすら推してこなかったとしたら。いや、もちろんカーペンターズさだまさしが当時の中高生に全くウケないかといわれるとそれはそれで甚だ疑問ではあるのですが、それにしたって、メタルの方がかっこいいような気がします。叔父さんが「男は黙ってメタル」とか云って、ウイスキーとかグビグビ飲みながらメタリカとか推してたとしたら。それは、嫌だな。やっぱりカーペンターズで我慢しておこう。

 

んでいつも通り、無駄に自分語りに入るわけなんですけど。

 

僕はというと、自分がピアノとかやっててかっこいいとか思ったことって一度もないんですよね。それってなぜならば、僕にとってはピアノとかやってるのってうんこしてるのと同じようなもんだったからです。うんこって言葉を連呼したくないので、以下「うんこ」という単語は「P」に変えます。

 

自分が「P」するの見られたい人って、稀だからです。ましてや、「P」してる自分がかっこいいと思う人なんてめちゃくちゃ稀です。でも「P」は誰だってしますし、「P」しなくちゃたぶんですけど死にます。死ぬほど「P」を我慢したことないんでなんともいえないですけど。「P」は、出来れば見られたくないです、恥ずかしいですし、何より見るほうはというと、とても損した気分になるからです。得した気分になる人もいるのかもしんないけど、かなり稀です。

 

でも同級生とかは、もの凄く楽しそうな顔でピアノの発表会とか出るわけですよ。彼らにとってのそれは、「P」じゃなかったんですよ。そんで、僕はその彼らの前向きな姿勢をめちゃくちゃ恨んだ。というか、妬み根性を持ったと云って良い。それは何故かって、やっぱり僕の生きてきた環境が前向きじゃなかったからです。具体的に云えば、父と母は僕がピアノを弾くことを「良し」としなかった。爺ちゃんに貰ったピアノを勝手に売り払いやがるほど。

 

でも、今となっては気持ちはわかるんですよ。うちは農家じゃないんでただの例え話ですけど、農家であるところの家があったとして、その自分の畑の上でひたすら釣り竿もってなんか釣ろうとしてたら、そりゃ怒りますがな。少なくとも「そんなところじゃ何も釣れないよ、だって土だし、馬鹿」という説教くらいしたくなるでしょう。その馬鹿が自分の子供だったらなおさらのことだと思うんですよね。しかも僕の兄妹なんかが、聞き分けの良いというか僕と違って頭の良い子供だったから「なんでこいつだけはわかんねえんだ」に拍車をかけてたと思うんですよ。

 

でも、子供であるところの僕はというと「釣れるかもしんねえじゃん」って思うじゃないですか。「兄ちゃんや妹は馬鹿にしてるけど、タイとかイカとか釣れるかもしんねえ」って。それが無理でも「せめて好きにさせろよ」って。まあ、それは夢でしかないんですけど。年を取ってくると、わかるじゃないですか。畑じゃタイやイカは釣れないってことに。タイやイカを釣りたかったら、海に行くしかないよね。でも農家であるところの家なんだから、海に行くにはお金必要だよね。だったら「俺はニンジンやジャガイモを堀りたいんじゃなくて、イカやタイを釣りたいから、海に行く金くれ」って云うじゃん、無理じゃん。お金っていったら天から降ってくるもんじゃないから、せめて自分で稼がなくちゃいけないよね。同じ農家でも海に近い人もいたり、遠くても行けるだけのお金くれる人もいるんだけどさ。まあ年を取った今でも「タイやイカは釣れなくても、カエルやカメやザリガニくらいは釣れたかもしれない」っていう夢、いわゆる自己陶酔だけは忘れないもんだけど。

 

んで、僕の親はというと「そんな所で釣れるはずねえだろ馬鹿、そこは土だ、そもそもおまえに釣りのセンスはねえ」みたいなことを云うわけですよ。僕はそんなに強い人ではなかったので、それでも堂々と畑の上で釣り竿を上げ続けるわけにもいかなかったんですよ。自分の畑を自分で手に入れた親とか尊敬してたし、なにより親を喜ばせたかったっていう優しさという名の弱さがあったからねえ。だけど、いわゆるここでいうところの釣りが好きだったので両親兄妹が寝静まった後とかに釣り竿を掲げるじゃないですか。んで見るに見かねた親は、知らない内に僕の釣り竿売り払ってた。すごく発狂しましたよ。まあそうしたらそうしたで、釣り竿のある友達の家とか釣り具屋とか行くわけなんですけど。

 

そんな感じでとにかく暗い部屋で誰にも見つからないように、楽器をいじっていたんですよね。「これはとても恥ずかしいことだから、誰にも見られないようにしよう」っていう風な感じで。んで、その暗がりが自分の居場所であり、そこにいるときは安らぎが得られたんです。だから僕は自分の「P」を保存することにしました。ある意味、コレクション癖みたいなのがあったといってもいい。無駄にすごくプライドの高いアニメ好きな人が、隠し部屋で密かに自分で作ったフィギュアを集めるようなもんです。

 

そうそう、こういうのすべて歪んだプライドっていうんだって後年気付くわけなんですけど。まあそれは結果論なんで、とにかく過程での僕の自覚は「P」でしかなかったんです。

 

だから、どんなに自分の意識を変えようと頑張っても、僕にとってのそれはやっぱり「P」でしかなくて、やっぱり自覚的なものとしてはそうだったんですよ。人に云われるのも大事だけど、自分の意識ってのが一番大事じゃないですか。僕のその卑屈さは散々他人のことを苛立たせてきたわけですけど、でもやっぱりどう考えたって「P」に価値とかないじゃないですか。出したら流す、それだけのことですよ。

 

いや、ほんとは「P」なんて汚い言葉で表現したくないんですけど、これが一番最適な表現なんですよ。「P」見れば健康状態がよくわかるって云いますけど、そういう意味も含めて、僕は自分の生み出したものを見れば自分の健康状態がわかった。そういう意味でも、それらは全部「自分のためにはなっていた」ということです。

 

んで、僕はというと、人よりちょっとだけ腹を下しやすかったので、人よりたくさん出してしまったというだけの話でしかないんですよね。

だけど、いたんですよ。その腹の下しやすい体質の僕が垂れ流した「P」も、それは「P」じゃねえんだよって云ってくれる人がいたんですよ。僕だって、その言葉がとても嬉しかった時期があったんですよ。

 

そんで、期待してしまった。それからというものの、腐るほどのコンペに応募して腐るほど落ちて、腐るほどバーやラウンジなんかの契約取ろうとして、腐るほどの挫折を味わって、生きてるか生きてないかすらわかんない中でも、やっぱり僕はそこにしがみついてきた。やっぱ嬉しかったんですよね。毎日酷評される中でも、誰かが聴いてくれた。もうそれだけで、とても。何度か挫折しそうになったときも、爺ちゃんとかすごく応援してくれたんですよ。従姉妹のお姉ちゃんとかいつも傍にいてくれたんですよ。もうこんな、どうしようもないクズだったのに。その「愛」だけで、ここまで生きてこれたんですよ。

 

今だってその信仰にも良く似た「愛」だけで生きてこれてるんですよ。だから僕は主体的に「愛は素晴らしい」っていつも云う。どんだけ馬鹿にされても「必要なもんは愛が全てだ」って云う。この主張だけは、僕の人生で唯一誇れるものだ。

 

だけど、僕はやめた。期待することもされることもやめた。嫌いになったからじゃなくて、単純に無理だったからやめた。これは親のせいなんかじゃなくて、僕のせいでしかない。だから、こうしてたまに思い返すことはあっても、後悔はしない。

 

なんで後悔しないかっていうと、僕は自分のことを少し赦したからです。僕が自覚的に「音楽で食っていくこと」をやめた23歳の誕生日に、父からお下がりのアコースティックギターを貰ったんですよ。父は「ピアノなんてもんは、やらねぇけどな」と云いながら。僕はというと「なんだ、実は親父も好きだったんじゃん」とか云いながら笑い合って、たったそれだけで「音楽をやってた自分」は全部赦した。赦せた、もうどうしようもないくらい。結果的にそこで「親のことを見返してやりたい」という僕のコンプレックスは終息して、それと同時にやるせない叫び声にも似た旋律は行き場を失った。

 

そんで今、そんなアコースティックギターの弦を張り替えて。さだまさしの物真似芸人くらいはなれるかもしれないとかいう妄想だけを繰り広げながら、誰も聴かない、これから誰も聴くことのない精霊流しとか弾いてる。いつか誰かが「必要としてくれる」ことを夢見て。

 

夢ねぇ、夢、うん、なんかすごく馬鹿らしいけど、夢はとても良いもんだよ。これは、これだけは、誰からも奪い取られないもんだよ。素晴らしいんだよ、素晴らしいんだよな、世界は。夢見て、何度だって夢見て、そんでいつか消えて、その時はなにもなかったかのようにきっと愛に戻っていく。死んでも、きっとそこには大好きだった爺ちゃんや姉ちゃんが待ってて、そんで二人と酒とか飲みながらさ、僕の曲を、一緒に歌うんだ。その世界ではきっと「自分のこと大嫌いだった」自分のことをはじめて大好きになれてさ。大好きになれたら、僕の演奏を一度も聴くことのなかった両親や兄妹も、きっと、僕の曲を、一緒に歌ってくれるんだ!僕はそういう風に、自分勝手なエンディングを信じる。