くうちゅうくらげ

-A Boys Named No.28-

「社畜」についてよくわからない僕が「社畜」について書く。

これはクソみたいに長い文章です。ニューヨークタイムズに云わせれば「this text is “fucking” long」です。なんでわざわざ英語にしたのかわかんないです。

 

実はあんまり「社畜」って言葉の意味を調べてないので、かなり曖昧なテキストになる予定ではありますが、雑記みたいなものとして書いておきます。

 

テキストを打ってて感じたんですが、社畜って僕のPCのうんこIMEじゃ変換できません。なので広辞苑に載っているような言葉ではないのでしょう。こういうのって造語っていうんだっけ。まあそんなのはどうでもいいや。

 

最近はてなを徘徊していると「社畜」について反対を表明している方々が大勢いるような気がします。僕ははてなしか見ないのでわからないですが、他の場所でも思ったことを書いている人もたくさんいるかもしれません。こないだの選挙なんかでも共産党かなんかがずっとそんなこと云ってたような気もしないでもないです。

 

そういうのをざっと見ていった結果、僕の感想は「たぶんこんなこと叫んでる人のほとんどは社畜ってやつを経験したことがないんじゃないか」ということです。そもそも僕自身がこの「社畜」って言葉を正しく使えているのかどうかがとても疑問なのでなんともいえませんが。

 

いつものように無駄に例文にしてみたいと思います。

「月に200時間以上サービス残業、休みは150日に1日あるかないか、給料は手取り15万というAさん」

こんな極端に悲惨な状況が「社畜」なのか、それともこれは「社畜」以上なのか、それともそれ以下なのかすらわかりませんが、まあこれを例に取るとします。デリケートな話だと、大抵極論ってアテにならないのが常なんですが、中途半端にするとわかりにくくなるのでいいでしょう。

 

たとえばそんなAさんがいたとしたら、その人がいきなりブログとかサイトを立ち上げて「社畜は大反対です」とかいうのはかなり無理があるんじゃないかなって思ったからです。なぜならば、Aさんはそんな自分の状況が悲惨だと思っているのだとしたら、そんなこと精神を病んでとっくに辞めている可能性のほうが高いですし、それでも続けているのだとしたらなんだかんだでその環境に満足しているんじゃないかと思ったからです。満足するは云い過ぎかもしれないですが「こうなるしかなかった」的な状況を自覚しているということには間違いないでしょう。

じゃあそのAさん本人が「社畜は大反対です」とか騒がないとすると、騒いでいるやつは多分Aさん以外の人間ってことになります。たとえばAさんの周りの人間で「Aさんはかわいそうだなぁ」とか思っちゃった人とか、まあ仮にこのAさん過労死なんかしたら、喚くのは家族とかそういうもん。

 

なんかそうなってくるとますます疑問になってくるこの「社畜反対」という概念。誤解のないように先に書いておきますが、ブラック企業賛成とかそういうことを云いたいわけではないんですが。

 

で、まあ色々と吟味した挙句、「社畜」と「ブラック企業」と「自己責任」と「メンタルの強弱」というのは密接な関係であるということに気付くわけです。バカなのでここまで書かないと気付かないわけです。僕の自分の視点でしか物事を考えられないので、ここからいつもどおり自分の話になります。

 

その4つの点に絞って書きたいと思います。

 

僕は高卒から去年まで約6年間某会社で働いてきたわけではありますが、月に300時間は当たり前でした。ひどいときは泊まり込みで400時間超えたりしました。まあ残業代はきっちり入っていたので、ブラックというかどうかは疑問です。無理矢理残業させられることもありませんでしたので、好き好んで自分の意志で働いてました。

 

そんな僕自身は、70%くらいの気持ちで社畜万歳という立場をとります。というかそもそも自分の意志で好き好んで長時間働くのが社畜というのかどうかは微妙なわけでもありますが。

 

なぜならば、僕は余計なことを考えたくなかったからです。友達に彼女が出来たとか、誰が結婚しただとか、親の無駄なプレッシャーとか、ねえちゃんが死んだこととか、仕事してればどうでもよくなったからです。そして金が入るので、これらは僕のとってはプラスでした。むしろ仕事してない時のほうが精神的ストレスが激しかったような気がします。「帰ってもどうせやることないからな」が残業の理由です。

 

だけど正当な金を払われないとか、時給に換算したら200円くらいだ、とかいうのはおかしな話だと思います。でも吉野家で牛丼が280円くらいで食えるっていうのも良く考えると同じくらいおかしな話です。吉野家で牛丼が280円くらいで食えるのはどっかで何かを削っているからだと思います。

 

ではいわゆる「ブラック企業」を選んだのは自己責任であるか。

 

なんていうのかな。僕は非常に楽観的なんで、凄くその人がダメじゃない限りはダメになる前に辞められると思うんですよね。893とかはわかりませんけど。

 

「結婚して子供いて仕事しないといろいろとヤバくて、だけどサービス残業しないと会社クビになっちゃうから無理してサービス残業繰り返して精神的に病んだBさん」

っていう悲惨なケースもあるとは思うんですが、これもどうなんでしょうね。

 

単純にBさんのメンタルが「弱いほう」だからいけないのか。ただ未来を予期してなかったり、努力や頭が足りなかったBさんの責任でしかないのかな。もちろん企業にも難ありってことになるのかもしれないけど、そんなのその企業を選んだBさんの責任ってのも捨てがたいよね。

 

歪んだ側として一応表明しとく。こういうのって、全部自己責任として断罪しますよ、僕は。だって、結婚したり子供いたり、愛したり愛されたり、いいもんたくさん背負ってるじゃん。誰かに背負わされたものじゃないでしょ、そんなの。子供は天から降ってこないよ。メンタルに自信がないのなら、そんな結婚したり子供いたりしちゃだめでしょ。

 

まあ僕は極端な自己責任論人間です。だって結局社蓄になったらなったでそれは自分のせいでしかないじゃないですか。僕が生きづらいのは、ふつうに僕の責任ですよ。ブラック企業に勤めて子供養えなくなったら、それは子供作った僕の責任ですよ。ほかの人が幸せなのは、ほかの人の努力なり運なりの成果でしょう。それと僕は何も関係ありません。誰かに押しつけられているからとかそんなんじゃないんだから。そもそも自分に価値があると思ってるのが間違いなんだって。

 

たぶん自己責任論人間っていうのは、他人にとってはそんなにめんどくさくないはずです。なぜならば「他人は他人、自分は自分」だから、僕がとんでもなく残業して疲れても「おまえも疲れろ、疲れるのは美しい」とは絶対に云わないからです。ただし「あとで金がないとか云っても、それは今働いてないおまえのせいだからな」とは云います。

 

んでこの自己責任論を展開するからには、自分が同じ状況になったときに文句は云えないっていう話になってくるだけであって、大して覚悟もなくこういうことは云っちゃだめなんですけどね。

 

どうしてこんなにやる気がないのかというと、僕はたびたび、自分の命について考えるからです。小さな頃から、この呪いにもよく似た脳内問答を繰り返しています。そもそも自分の命にそんなに価値があると思えません。それは学校にいっててもそうだったし、ピアノを弾いててもそうだったし、誰と何処にいてもそうでした。僕はこれからもこの呪いと闘い続けることでしょう。

 

いつも答えは「必要とされてない」僕の場合は常にこれでした。親にも友達にも必要とされていない。必要としてくれた人はこの世を去った。そしてこのマイナスエネルギーは反発してプラスに働くことがよくあります。「必要とされてないから必要とされたい」がそれです。

 

だから、社畜になってた方がマシでした。その会社にとって、自分が「必要」だったので。だけど家畜ってのはいざ荒野に放り出されたら、自分で自分の生きる意味を見つけなきゃなりません。それはめんどくさいです。それなら思考停止してたほうが楽じゃないですか。まあ、思考停止した人間が生きているのかというとかなり微妙です。むしろ死んでいたほうが楽だと何度思ったことでしょう。

 

ある意味では、社畜反対というスタンスを堂々と取れるのは、凄いことだと思います。というか、羨ましく感じます。僕自身が歪んだ生き方をしてしまったからそう思うだけで、みなさんがそう思うかはぜんぜんわかりません。

 

なぜ羨ましい思うかというとそういう人は「自分が生きている」という理由を、なんの理屈も根拠もなしに感じ取れるだけの感受性があるような気がするからです。病院に行ったりするのも、たぶん自分の身を守りたいからでしょう。僕には自分の身を守る理由ってのがどうも見つかりません。死んだら死んだでホント、ラッキーなんですよ。なんだろう、自分の命を引き替えにしてでも守るものってのがない。そしてこれらは、誰のせいでもなくて、自分のせいでしかない。

 

ただの妬み根性になったけど、自分語りはこの辺でおしまい。

 

これは「あんがい社畜も振り返ったら悪くねえな俺にとっては」程度の話。こんなのたぶん甲子園目指して毎日休む間もなく練習してた高校生が「今思えば練習キツかったけど野球最高だった」とか云ってるのとあんま大差ない。で、そう思った高校生がやがて息子に「俺が最高だったんだからお前も野球やれ」ってやつは多分鬱陶しい。息子は「別に野球やんなくても俺は最高に楽しい」とか思うのかもしんない。だけどそう云ったからには「野球やっとけば良かった」とは云えないということになるだけの話です。

 

最終的に僕のスタンスはというと「他人がブラック企業に勤めようと社畜になろうと関係ない、だけど俺はそうならない」っていうとても下らないものでしかないということに気付きました。多分それなりに満足いく生活が出来ているのならわざわざ社畜にならなくてもそれなりに幸せに生きていけるんだろうと思います。

この間の大地震然り、幸せな人が不幸せな人を多大なる善意で包んだ結果、不幸せな人が更に不幸せになる場合もあるので、僕はあんまり多くは望まず自分の周りの人の幸せにだけ少しだけ気を使ってあげて、「お前も幸せ、俺もまあまあ悪くない」くらいの立ち位置でいられたらいいです。

 

なぜならば僕にとっての世界は僕が直接関わる人とだけで構成されているからです。他の人のことは知りません。死んでも生きてても関係ありません。なんでそう断言するのかというと、まったく関係ないひとが「お前死ぬな!」とか云い始める善意とか偽善に虫唾が走るからです。

 

僕は自分や他人は「すべて平等に価値が“無い”」というハートマン軍曹顔負けのスタンスを地で行ってます。今度時間があったらこの辺のことも少し無駄に詳しく書きたいと思います。というか書こうとしなくても勝手に書いてしまう恐れがあるので、先に云っておきます。近日中に出てくることでしょう。

 

というか毎日題材は違えど、云ってることはいつも同じことのような気がしてなりません。以上、今日の僕の独り言でした。