くうちゅうくらげ

-A Boys Named No.28-

カノン。

「あなたは何の為に生きているのですか?」

この質問に、どれだけの人が明確に答えられるのだろう。10代の頃からこんなことばかり思っていました。先生はどうだろう、親はどうだろう、友人はどうだろう。

 

じゃあ今になってみて、もう一度聞いたとて、どうだろう。たとえばこの記事を見ている人は、この質問にどう答えるのか。

 

僕は結果的に外側に向く人と、内側に向く人の二極化なんじゃないかと考えてました。

「世界を変えるため」「仕事のため」「未来のため」「子供のため」「世の中にたくさんいる恵まれない人々のため」vs「自分のため」

なんだっていい。答えがあればあるだけ皮肉抜きで素晴らしいことだと思うからです。

 

僕の場合は後者です。というかこれしかないというのが実体だと思っています。前者は存在しないと思いこんでいるタイプです。

 

いわゆる「世界を変える自分のため」とか「子供ための自分のため」ってやつしかないと思うからです。ほかの人のことは知りません。

 

で、僕はというと、世界を変えたいとは思わないし、残念ながら恋人もいない、よって未来とかどうでもいい、仕事とか今はまともにしてない。じゃあなんだ、死んだ方がマシか?そりゃそうだ。だけど、死んだら僕の唯一のスタンスである「生きている限り可能性はある」これを放棄することになってしまう。死んだら可能性はゼロだ。後藤真希をはじめとした可愛い女の子とデートする可能性が消失してしまう。それではまずい。

 

だけど死んだらねえちゃんに会えるという可能性も残されている。これはこれでアリだ。死んだら可能性がなくなるというのも思いこみかもしれない。死んだら死んだで凄い素晴らしい世界が待っている可能性があるのかもしれない。こちらは生きている限り可能性がゼロだ。ああ、悩む。

 

頭がぐるぐるしてきた。

最初の話に戻りますけど、はじめの質問に明確に答えられる人は、わりと少ないと思ってます。勝手に思ってるだけなので、実際は知りません。そう考えると「生きる意志を持たないものは死すべき」とか断言しちゃうと、世の中のほとんどの人が死んでしまうことになると思います。

 

「生きる意味を持たない」=「死ぬか」に直結する人は、あんがい少ないんじゃないかと思います。僕も例外ではありません。だけどそれでいいんじゃないかとも思います。

 

生きるための具体的な意志を持つということは、これはギャンブルみたいなものだと思います。たとえば「子供のために生きる」場合、じゃあいざ子供死んだらどうすんねんという話になってきます。これ、万が一事故とか起きたら、それこそ死ぬしかなくなるので。まあ人生自体ギャンブルみたいなもんだと云ったらそこまでなんですが。

 

とにかくそういう「相手あってのもの」にすべてのチップを投下するのはたぶん健康的ではありません。なぜならば他人は自分の意志でどうにか出来るものじゃないので、信用できないからです。

 

僕はここ最近自分でテキスト書いてて感じ始めたことなんですけど、もしかしたら本当の「強さ」ってやつは「何も持たないこと」なんじゃないかと思い始めました。というか、前からそんな風に思ってて、なおさら自覚しているというだけに過ぎないのではありますが。

 

というか強さっていうよりも、弱さを持たないってことです。守るものがなければ、守らなくて済みますから。人を好きになったら、嫌われることがつらいので、最初から好きにならなければ良いだけの話です。僕は自分を信用してないので、ほかの人のことを信用するなんてものすごくムシのいい話だと思います。

 

僕の気持ちは例外なく、変わります。たぶん同じように他人の気持ちも例外なく、変わります。そしてそんな類のものを受け入れることもできなければ、突き放すこともできない僕はというと、気持ちに疲れてしまいます。だったら気持ちとかいらないんじゃねというのが僕の心境です。

 

人間の唯一の武器である「気持ち」を失ったら、これは人形とかロボットの類とあんまり変わらないんじゃないかと思います。だけど自覚的にロボットになることはそんなに不幸せなことでもないのかもしれません。他人からみたらただの「かわいそうな人」でしかないと思いますが、そんな他人からの評価ですら受け入れることがなければつらい気持ちになんてなりません。だけどそんなに簡単なものじゃありません。「生きる意味」ってやつは唐突に僕の心の奥底を抉ってきます。容赦なく。だから僕はたびたび「生きる意味」に手を出す。そして、また遠のいていく。

 

なんだか無性に「つらいなあ」と思いました。だけど僕のつらさってやつはどうしようもなく、他人にとってはどうでもいいものです。でもだからこそなおさらつらいんだろうなとは思いました。こんな時に、誰か僕のつらいなあを受け止めてくれる人がいたらいいのになあ。ずっと前はそういう人が身近にいたからこそ、その分なおさらつらいなあ。

 

でもなあ、つらくて当たり前なんだよなあ。僕はというと自分でハッキリと他人には期待しないと断言しているもんなあ。だからつらいのは自分のせいでしかないんだよなあ。だったらせめてこのつらさを自分では認めなきゃならないよなあ。せめて自分だけはこのつらさを勝手に美しさに変質させていかないといけないよなあ。

 

まあそんな風に僕は自分なりに生きる意味を構築しています。

 

たぶん僕が生きている理由は、断言はまだ出来ないけど、「この世界が美しいから」です。もちろんつらいことや苦しいことが大半ですけど、そのつらさと苦しさにすら美しさが点在しているはず。そういうことから「可能性」を見つけられたら、僕の「勝ち」です。

 

僕が生きているのは、少年であった時の僕に「こんなに世界は美しいんだざまあみろ、やっぱり可能性ってやつはあったんだ」と胸を張って云いたいからです。そして安らかに、何もなかったかのように死にたい。死んだら、会いたかった人すべてに会えることを信じて。

 

僕の「生」は「死」によって完成するはずです。そのかわり「死」まで「生」が完成することはありません。たぶん僕に「生きた意味」が芽生えるとしたら「28さんに死んでもらったら困る!」という人をひとりでも増やすことか「俺はまだまだやりたいことがあるんだ!」と自分で思えるかどうかです。今はどっちもないのでつらいだけの話です。でも明日はわかりません。明日がわからない以上は頑張ります。