くうちゅうくらげ

-A Boys Named No.28-

続・参議院選挙が近いということで僕なりに政治の話を。

前回のエントリとタイトルは一緒だけど、書いてる内容はかなりの別物。

あっちも精神論だけど、こっちはある意味もっと精神論。

というか選挙の話とまったく関係ないかもしれない。

それと、無駄に長いので暇な人だけどうぞなテキスト。

 

「老人とか、障害者とかもう抹殺しましょうよ、老人とか70歳になった時点で強制収容所送りか、生まれた時点で時限爆弾を頭の中に埋め込んで70歳になったら自動的に爆発します、障害を持っている方は、障害が見つかった時点で同様の措置です、あ、生活保護とかもいっさいなしで、働けない人は餓死です、そうしたらたぶん福祉とか医療の金とかたくさんなくなって他のところに回せるし、たぶん年金とかもいらなくなるんじゃないですか」

というとんでもねえ気違った話を、友人というか知人Aがもの凄い剣幕で語り始めました。

参議院選挙が近いということで、飲み会でそのような話題になったときです。

 

当然、僕なんかはそんなに人生に開き直れていないので、Aの意見は真っ向から否定したいわけだったのですが、どれも全て精彩を欠いた感情論で否定してしまいました。

なのでこれから書くものも、やっぱり感情論でしかないわけでもありますから、決して頭の良いテキストではありません、むしろ頭は悪いです。

 

一応僕の人生観では「実際になってみないとその人の気持ちは分かり得ない」というものがあります。

たとえばを挙げればキリがないですが、野球観戦してて「今のボールは俺なら見逃すな」と思ったとしても実際にバッターボックスに立ってたら振っちゃってたかもしれない、という可能性がある以上、あの時バッターボックスに立っていた人間になってみなければ、判断はできないんじゃないかという類の話です。

 

で気付いたんですけど、この非常に無責任な人生観だと、先のAの意見を否定できないわけですよね。

だからといって肯定するかというのはまた別の話なんですが。

実際、僕は老人にも障害者にもなったことがないし、生活保護をもらったことがないという以上、その人等の立場になることはできない、ということになってしまいます。

しかし、この先老人になってしまうかもしれないし、障害を持つかもしれないし、生活保護をもらうことになるかもしれない、そういう「可能性」は多いに有ります。

これは当然、Aの方の人生にも可能性として存在するでしょう。

可能性ってやつを否定するならば、今すぐここで死ぬくらいの選択肢しかないからです。

「死ぬ」という選択肢を選べない以上は、それ以外の可能性というのを否定することはできないということになっています。

もしかしたら、明日交通事故に遭って半身不随になるかもしれないし、突然美女に話しかけられてホテルに行ってご懐妊してしまうという可能性も、まあ小数点以下のそのまた以下の可能性とはいえ、なくはないです、なくはないと思いたいです。

 

たぶん人ってのは、ある程度の「可能性」を期待して人生を生きるわけじゃないですか。

他の人のことはよくわかんないですが「明日を生きる」っていうのは「明日なんかあるかもしれない」っていう可能性への期待の連続だと僕は思っているんですよね。

当然、自覚的にはそんなに前向きな人間ではないので、実際にそこのところを強く思っているのかというとまた話は別なんですが。

でもメシとか食おうとしなければ食わずにいられるわけで、50階建てのビルから飛び降りた時点で死んでしまうという事実がある以上、メシ食ったりビルから飛び降りなかったりするということは「生きたい」という意志があるということに繋がるのは明白です。

というか、そういうことに勝手になっちゃうんだと思います。

 

で、Aの話に戻りますが、

たとえば僕なんて凄く爺ちゃん婆ちゃんっ子だったわけで、婆ちゃんはもう80いくつで老人ホームとは云えども生きているし、爺ちゃんは76くらいで亡くなりましたけど、まあ70歳で殺されてたらと考えると、今の僕もねえわけです。

だからこそすげえ勢いで否定しますよ。

「70歳になったら死ぬとか勝手に決めんな!ふざけんな!」と。

でもそれってただの感情論じゃないですか。

もちろん感情論というもの全てがクソかというとそうでもないんですけど。

自分が生まれる以前に爺ちゃん婆ちゃんがとっくに亡くなっている人もいるわけで、逆に爺ちゃん婆ちゃんなんて死んじまえばいいのにって思うほど酷い扱いを受けてる人もいるのかもしんない。

もしかしたらAがそういう人だったのかもしんない。

だからそうなってくると、互いに立っている場所が違うので感情論じゃ水掛け論になるんですよね。

お互いが「てめえの人生なんて知ったこっちゃねえ」と云い始めたらキリがないですから。

そうなると「70歳を超えたって、障害を持っていたって、世界や社会に貢献しているのです」というしっかりとした説明をしなくちゃならない。

で、僕はというと、大して勉強をしてきたわけじゃないので、そういう知識を持っているはずがない。

逆にAが「70歳以上がいらないのは~という理由があって」とか雄弁に語り始めたら負けるんですよね。

Aも僕同様のバカだったんで、助かりましたけど。

 

まあ自分の爺さん婆さんのことはどうでもいいとして、ではいざ自分がその年になったらどうなんだという話になってきますよね。

確かに70歳以上の人だって人である以上、毎日がすげえ楽しい人もいれば、すげえつまんない人もいるかもしんない。

でも未来のことなんで「自分が」そのときにどう思ってるかなんて、そのときの自分にしかわからないんですよね。

 

昔、文献かなんかで、欧米の老人の幸福度指数ってのはわりと高くて、日本は低いってのを知ったことがあって、そんで老人の幸福度が高い国ってのはかなり幸せなんだ、みたいなものを見たことがあります。

僕は知らないですけど、あれにもたぶんしっかりとした理由ってのがあるんでしょう。

 

でも可能性が「ない」っていうのと微量ながらも「ある」っていうのはこれまたぜんぜん別の話だと僕は思うんですよ。

0と1じゃぜんぜん違うぞ、と。

「70歳で死ぬ」とか決まってたら、70歳以上で何かを成し遂げる可能性は「ない」んですよね。

つまり、69歳までにできること全部しなくちゃなんない。

でも、70歳では出来なくても71歳なら出来ることもあるかもしんない。

70歳の人は、その71歳になればという可能性を糧に生きてるのかもしんない。

障害を持ってる人だって可能性が「ある」んですよ。

僕が明日突然半身不随になってもまだ歩けるという可能性がある。

だけど勝手に死ぬことになってたら、可能性は当然ない、ゼロ。

 

そういうことも考えてみてくださいよ、とAさんに云ってみる。

半身不随になったとして、歩ける可能性が「まだある」のと「ない」んじゃぜんぜん違うんですよ。

結果的に歩けなかったとしても可能性が微量ながら「ある」以上は生き続けられるんですよ。

そりゃもちろん、結果的に歩けなかったら「無駄」なのかもしんない。

経済的な話も絡んできたら「歩こうとした努力」だけを認めてくれるのかどうかだってわかんない。

Aさんの世界では「でも結果的にマイナスだよね、だから死んでください」って云われたりするのかな。

ガンでめちゃくちゃ苦しい闘病生活してる人だって治る可能性が「ある」以上は明日に期待するじゃないですか。

治るかもしんないんだから。

でも結果的に治らなかったら「やっぱり医療費の無駄でしたね」とかいう話になってくるのかな。

そう考えるとどこにも希望はねえよなあ。

でもそこに感情論が入る余地ってのはねえのかな、と少し考える。

情とか愛とか云う名の、形もない感情論が。

 

まあAさんの話は虫酸が走るほどの極論すぎるので、少し頭のいい人なら否定するのは凄く簡単だと思います。

結果的にその可能性自体を否定するAさんみたいな意見がまかり通るとなると、かなり暗黒な時代に突入することは間違いありませんね。

69歳になって自爆テロとか起こす人が激増しそう。

 

だけど、なんだか参議院選挙を前にして、少し思ってしまったんですよね。

なんか難しい話で云いくるめているけど「結果的には」Aさんみたいなことを云ってる人だっているんじゃないかということを。

そりゃハッキリとそんなこと云う人ばかりじゃないんで非常にわかりづらいんですけど。

 

だからまあ結果的には、最終的に自分の大事な人や場所はくらいは守れるくらいの知識とかつけておかなきゃならないかなあと思いました。

僕自身は誰からも愛されてないんで、これすらただの妄想なのかもしんないですけど。

何も関心持ってなかったくせに、いきなり「おまえの父さんには死んでもらいます」とか云われて、もの凄い勢いで発狂するのはいやだからです。

自分を納得させるためにも、せめて落とし所はつけたいです。

感情論対理論じゃ土俵が違ってきますから。

とんでもないこと云われたら、まあ否定したいわけじゃないですか。

そうすると勉強っていうか知らなくちゃなんないよね。

勉強するのいやだったら、負けるのを認めなきゃなんないよね。

でも僕は負けを認めるのって凄くいやなんで、100万の兵士に城が完全包囲されて王座にたった一人でも、せめて自分の中では「勝ちましたね」くらいの妄想出来るくらいには、やっておかないとなあと思いました。

たぶんですけど、これは、たぶんなんですけど、「可能性のある」戦略を尽くして包囲されるのと、何もしねえで知らない内に包囲されちゃうのじゃ覚悟って面でもぜんぜん違うと思ったからです。

なんかすでにたった一人で包囲されるのが前提なんで凄く無駄にやりきれませんが。

 

まあこれですら思いっきり感情論でしかないんで、僕自身は結局否定する時も肯定する時も感情論になってしまうんじゃないかなあとも思いました。

感情論はクソだって云われたら、感情論でめちゃくちゃ否定するんだろうなあ。

どうしようもねえな。

でもなあ、感情論ってクソじゃねえと思うんだよなあ。

僕がぜんぜん論破できない問題だって、似たような感情論を持った、僕より遙かに頭が良くて遙かに偉い人が代わりに論破してくれるかもしんねえもん。

愛とかよくわかんねえものが入る余地があるかもしんないって期待してもいいじゃんな。

それだって可能性だよなあ。

理論は人任せではあっても、人を動かすのが感情論ならそれだけでクソじゃねえと思うんだよなあ。

 

なので、今日は端的に云えば「可能性」という題目の自分語り。

関係ないけど僕がテキストを書いているのもそんな理由。

書かなければ、見てくれる可能性はゼロだけど、なんか書いていればもしかしたら美女からお声がかかるかもしれない、それもゼロではない。

ゼロではないんです、ゼロじゃないと云ってください。

まあ僕自身がそういう可能性からかなり見放されている人間なので、だからこそなおさらに可能性とやらに異常に執着するという個人的な事情もあります。

ゼロだと云われてしまうと勢いよく死んでしまうかもいれないという、文字通り、可能性があるからです。

墓碑銘は「僕は、オナニーに生き、そして死にました」とかでいい。

それどうでもいい。

僕が「死ね」と云われても、なんとなしにここまで生きているというのはこういう意味だと云う、誰の得にもならねえ自分語り。

 

ぜんぜん話は違うけど、「いつまで生きれるかわからない」という漠然とした寿命と「70歳まで」と明確に決められた寿命ってのがどっちが「有意義なのか」って云われるとどうだかわかんねえ。

 

だけど有意義ってもの自体価値基準なんで、毎日オナニーしてるだけで「有意義」な人もいれば、戦争に行ってたくさん人殺すことが「有意義」な人もいるんじゃないかと思うので、価値が人による基準である以上はそれらは自分で決めるしかありません。

自己啓発なんかで「こういう人生は有意義である」とか「こういう生き方をするべきである」というものがとても嫌いなのはそんな理由。

あれこそ名目上「可能性を増やすため」的なものだけど、結局は「可能性自体の否定」ってことに繋がってもおかしくねえんじゃないのと思ふ。

もっと過激に嫌悪感を持ったらその辺も無駄にテキストに起こすかもしんない。

当然、その時は感情論で。