くうちゅうくらげ

-A Boys Named No.28-

そらとぶもふもふ。

自意識過剰もいいところだが、ここのところやる気がないのでやる気があった頃の自分の昔の記事を他人事のようにぼけーっと眺めていたりする。そうしているとなんだか無駄に書きたいことがあるような気がしてきたので書くことにする。

 

この年で“愛”と云う言葉や感情の1%も理解できていない僕が云うのも何だが、今日は無駄にその話をしにきた。最近やる気がないのでどこまでやる気を出せるかは不明だが。過去にも断片的なことはいくつも書いているはず(全く記憶にない)だけど、とりあえず思いついたことを書くことにする。

 

ひとくくりに“愛”とは云ってもそれはたくさんある。たくさんあるからこそ、別に僕は他の人に「誰か(何か)を愛したことありますか?」って聞いたとしたら「あります」も「ないです」も信じる。信じるっていうかどうでもいい。要は愛なんて「自分が愛したと思った」時点で成り立つものだと思うから。というか基準がなくてその人の心を読めない、決められない以上は「それは本当に愛なんですかねえ」なんてめんどくさいことを云うつもりもない。というかそんなこという相手もいなかった、あちゃー。

 

ちょっと話がズレるかもしれないが、ここで今一度無駄に僕の立ち位置をいうか様々なものをハッキリさせておきたいと思う。誰のためになのかって云われたら当然僕のためでしかないけど。このブログのテーマは“僕”である。ここは自我のこととか他人の人生のこととか政治だとかおっぱいのこととかを書いているものではなく、だからこそ誰かのためになるようなものでもなんでもない。

 

ただまあ、何度も書いているように、ただの「僕のためであるものでしかない」ものも、極稀にほんと極稀に誰かのために成り得ることがある。世の中には云い切れることや決め付けられることは少ないのだけど、こればっかりは云い切れる。なぜならば、過去も今もこれからも僕は“誰か”が”自分のためにやっていること”が自分のためになった経験があるからだ。その“誰か”がどこか特定の人だと云うつもりはないし、その特定の人を目当てにやっているわけでもない。“彼”や“彼女”が僕のためにやっているのではないように。わざわざ公開している理由はそういうことである。特定の人だけにメッセージを与えたいなら、他のSNSでもやっていれば解決するだけの話だ。

 

で、テーマである“僕”がいったい何なのか。当然“僕”はなんか知らないけど生きてる。生きてる理由は良くわからん。今現状は食ってるから生きてるけど、かあちゃんの予定では僕は女の子のハズだったらしいし、まあとにかく良くわからん。でも仕方なく生きちゃってる以上はそんなに死にたい気分にならないし、イロイロと考えてしまうハメになる。イロイロと考えてしまうということは必要悪でクソくらえだけどまあそれはまた別の話なので省くとして、“僕”はたまには人生の話を、たまにはおっぱいの話をしたくもなる。ただの日記を書きたくなるときもなくはない。

 

このブログのテーマは“僕”だ。じゃあ“僕”のテーマは何だというと、紛れもないそのクソみたいな“愛”である。「愛とはいったい何か」ということである。んでこの「愛とはいったい何か」ということにはたぶん答えはない。科学や哲学で証明されているものはあるのかもしれないけど、それとこれとは別問題だ。当然のように“僕の”愛と“その他の人の”愛は違うからだ。

 

だから僕は誰か偉い人とかが云う「愛すれば幸せになる」類のものってのは真に受けない。信じないってわけではない。その人が愛すれば幸せになったのかもしれないし、本当にそうかもしんないからそればっかりは否定も出来ない。だけど僕からしてみればそれは「そうですね」以外のナニモノでもないし、逆にその偉い人が云う「愛する」ことを実現できないところの僕が「かわいそう」に見えたところで、それだって「そうですね」以外のナニモノでもない。その愛ってやつに裏切られる可能性もまたあるわけで。

 

クソみたいな話を少しするとして、まあ僕もご多分に漏れず、それなりに好きな女がいて、それなりの人と付き合うという行為をした。ここ数年そういう色気づいた話がないのは哀しいことだが、過去には何度かそういう話があったものだ。他の人のことはよくわかんないが、僕が女の人と付き合ったりしたのは単純に「寂しかったから」これに尽きる。書くとなんだかべらぼうにお恥ずかしい話でもあるが、実際「寂しいから」これだけで誰かと一緒にいたり、その延長線上で結婚しちゃったりする人も少なくない気がする。

 

果たしてそれは“愛”であったか、確かに一種の愛ではあるだろうが、僕の内面上の反応は怪しい。他人が当時の僕らを見て「あれは愛ですねえ」と100人思ってたとしても自覚的に自分自身の反応が怪しい以上は怪しい。人は(僕は)たぶんいろいろと美化する。特に過去に関しては。だけど寂しさがそのまま愛になるかと考えるとやはりどうも怪しい。極端に云えば「おっぱい触りたいですね」とかこれが“愛”なのかっていうとなんかどうも怪しい気がするでしょう。

 

ここまでクソみたいな話を引っ張りながら書くのもアレだが、「じゃあ愛ってなんなのよ!」って聞かれたところで知らん。答えがあればそれほどラクなものはないし、答えがあるなら書く理由もない。考える必要とてない。

 

世の中には“愛っぽいもの”は腐るほどある。本にも映画にも道端にも路地裏にも海にも山にも風俗にもそれはある。どれを愛と感じるのかは人それぞれであり、感じようと思えば何の変哲もない雨や昼の公園にそれを感じることはできるだろう。人は精神で出来ているのだろうから、思い込むだけで変われる。愛の形もまた然り。

 

クソみたいな言葉で一度置いておくとしよう。「僕は愛ってやつをいつか探す」ただそれだけ。たとえばこの人生の上で僕がなんかの間違いで結婚したり子供できたりするかもしんないし、明日死ぬかもしんない。そればっかりはわからないけど、僕がどんなに変わり果てようとも僕であるわけで、“僕”というこのテーマがある以上はこれからもなんか考えるだろうと思う。

 

愛ってものが見つかんなかったとしても、“僕”という人間の物語の終着点で、せめて“愛っぽいもの”で囲まれる日々を目指しながら。たぶんある。きっとどこかに、それはある。

 

だから僕は今までの僕に「愛にすべてを」を守ることを誓うことにした。