くうちゅうくらげ

-A Boys Named No.28-

そらとぶアレ。

僕は人生に対してほとんど何も答えがでていないのですが、なんとなく自分が死ぬことや、なんとなく明日も生きてるのかもしれないということや、なんとなく自分以外の人がたくさんいることを知ってます。知っているから何があるのかというと特に何もありません。

 

僕は僕にはないものをたくさん持っている人に会いました。それを持っている人は一人ではないですし、時には僕以外の人はすべて持っているんじゃないかと思うくらい、僕に持っていないものを持っている人がいました。僕にない何かを持っていると何があるのかというと、特に何もありません。ただ「僕にはない何かを持っている人がいる」という現象がそこにあるだけです。

 

ここにはある一定のラインがあります。「越えてはいけないライン」というやつがそれです。それを越えれば捕まります。越えなければどんなに上にいても下にいても捕まることはない以上、何をしても自由です。僕が今日どこへ行こうとも、それは自由です。だから僕がいきなり今から沖縄に行ってもいいのです。だけど僕が今日いきなり沖縄に行ったとしたら何があるのかというと特に何もありません。

 

約1ヶ月前に、コンペに作品を送りました。結果は最終選考までいって落選です。最終選考までいくと何があるのかというと、少なくとも悪くないということは確かです。結果落選ということは何を意味するかというと駄目だったってことです。僕の作品が駄目だと何があるのかというと特に何もありません。逆に僕の作品が当選していたらどうなるのかというと、これも特に何もありません。

 

それは、ジャズを浴びて生活する人なんて1000人に1人もいないというのが正直な感想だからです。友達なんかは喜んでくれるかもしれませんが、友達が喜んでくれると何があるのかというと特に何もありません。僕が少しうれしいくらいです。僕が少しうれしいとどうなるかというと、それも特に何もありません。

 

僕はピアノが今でもそこそこ好きですが、僕がピアノを好きだとどうなるかというと特に何もありません。僕がこうした文章を書くとどうなるかというと、やっぱり特に何もありません。

 

特に何もないということは、何をしても良いわけでもありますし、何をしても意味がないというわけでもあります。

 

「これはやったほうがいいかな」ということと「これはやめたほうがいいかな」ということの選択の繰り返しが、人生のある程度を決めるのだと思います。この選択を間違うと、極端な場合死にます。死ななくても傷ついたり、生きづらくなったりすることもあります。逆にうれしくなったり幸せな気分になったりします。

 

頭が良かったり何かに才能があったりすれば「やったほうがいいかな」の範囲が広くなったりします。範囲が広くなることが良いことなのかというとそれはまた別の話です。人によるとしか云えません。それと「できる」範囲が広くなるとどうなるかというと、やはり特に何もありません。逆に「できない」範囲が広くなればどうなるかというと、それは若干つらいかもしれません。

 

僕が幸せであろうとも不幸せであろうとも、世の中のほとんどの人には特に何もないことを心得ます。それは他の人の人生がそうであっても僕には特に何もないからです。

 

世の中にはいろいろな言葉があります。どれを誰が信じても特になにもありません。自分を信じろとか自分に嘘はつくなとか云われても、自分を信じたところで、特に何もありませんし、自分に嘘をついたところで特に何もありません。

 

僕が涙を流したり、何かに感動したりしたとしたらどうなるかというと、やっぱり特に何もありませんし、僕が何かとても悪いことをして捕まったとしても、やっぱり特に何もありません。

 

特に何もないのですから、これらの考えが肯定されたり否定されたりするのもやっぱり特に何もありません。共感されたりされなかったりしても特に何もありません。

 

見ての通り、僕は無欲と装っていながら非常に傲慢だということに気付き、頭に来たのであれば、100点です。100点であるとどうなるかというと特に何もありません。

 

この文章はとてもやる気がないと云えます。