くうちゅうくらげ

-A Boys Named No.28-

7月の振り返り。

今月一番がんばったのは、たぶんこのブログです。一月に20回以上更新するなんて、暇人もいいところであります。バイトはたぶん10日くらいしかなかったし、飲み会も覚えている限りでは2回ほどしか参加していない。ということは残りの19日は家か外でぼけーっとしていた以外のなにものでもありません。

 

書くことも特にないんですけど、せっかくだからなんか書いておくことにします。

 

僕はブログをはじめてからそろそろ8年になります。はてなダイアリーからこのはてなブログで約4年。その前は@ワードだったか、よくわからない場所で記事を書いていました。

 

たまに時間があると昔のテキストなんかを漁ったりするのですけど、そうすると自分の云ってることが16歳のときとあんまり変わってないような気がしてます。書き方とかは変わっているかもしれないけど、根本的な部分というか。

 

毎日なにかを書くということはすごく難しいです。僕は書き始めたらおよそ20分くらいで書き終えるのですけど、なにぶんジャンルを固定していないせいで、日々それとなく思ったことを書きながら考えるタイプなので、かなりテンションに左右されるのも自覚しています。だから記事のテンションが一定じゃないのもそういう理由。

 

今月も何度か書いたんですけれど、それでも何かしらを書くというのは、それは他人の為ではないです。自分の為だけにおよそ8年もの歳月の間、クソみたいな文章を書き続けてきました。そこには誰かが見ているとか見ていないとかかなり関係ありません。

 

なぜ関係ないかというと、僕は他人の記事をほとんど見ないからです。

だから感銘を受けるとかそういうのも全くないし、影響もどこからも受けません。他人の人生を享受する気なんてさらさらありません。他人も勝手にそう思っているという前提を以てして書いてます。

 

ああ、この辺書いとくか。

 

今日は、一概に強さ、弱さとは云っても、かなり曖昧なものだと思いました。たとえば、死というテーマに絞った場合、強さ故に死を選ぶ場合と、弱さ故に死にきれない場合もあります。そのどっちがいいかというと、一応世論的には自殺はいけませんねえという話になってくると思うので、この例では強さは罪です。なので人によっては、死んだ人は弱くて、生きている人は強いのかもしんない。

 

でもそんなの価値基準ですよ。今月は知らないうちにこの「価値基準」というやつに的を絞って色々と書いていたのですけど、人によって評価が変わるものっていうのは「絶対」じゃありません。

 

「金」もそうです。「愛」ってやつもたぶんそうです。「死」ってやつですらそうなんだから、もう世の中のほとんどは価値です。んで、この基準ってやつは他人が決めるもんじゃないというのはずっと書いてきているわけですが。だから、そういうのは自分で決めるしかないんじゃないのというのが、僕のスタンスです。

 

自分の生きやすい世界を作るのは自分をおいてほかにありません。だからこの世界においては僕が神です。そして僕はあなたの世界においてはあなたが神であって欲しいと、思います。「ふたり」ではなくて「ひとり」と「ひとり」で「一緒に」いられるのがきっとベストです。僕はねえちゃんにそういうことを教わってきました。

 

自分のために他人を虐げる。これはたぶんそんなに悪いことじゃありません。弱肉強食というとちょっと極端ですが、自分のために他人を虐げてはいけないと断言するのは、それはいささか偽善が過ぎると思います。極端な話、すでにAさんと結婚されているBさんなんかは、すでにその時点で「Aさんという相手と結婚したかったCさん」を虐げていることになります。

 

なので、マザーテレサ精神で「なんでも与えます」は通用しません。それをしたいなら今すぐに死ぬべきだというスタンスを僕は取ります。これは別に意図してきたわけではありませんが、16歳くらいの僕のテキストを振り返ると、そういう類のことがふつうに書いてあるので「僕はこういう風になっている」という言い訳でしかないのですが。

 

ただし「こういう風になっている」ということも自分で決めた自分の価値基準でしかありません。だんだん哲学めいた話になってきましたが、「自分の意志」で決めたことは「自分の意志」でいくらでもひっくり返すことが出来ます。これが僕のいうところの自由です。

 

言葉は言葉によって圧殺され、言葉は言葉によって魂を得ます。記事を長年書き続けることは、それだけ自分の言葉によって生きられる領域を狭めているだけに過ぎないのかもしれません。だとしたら、僕が今生きづらいのは、たぶん僕が自分で生きづらくしているだけでしかないのでしょう。

 

だけど僕は自分の記事によって、自分が救われていると感じることだってあります。だからこの文章は、明日や明後日や1年後や10年後の僕の為に書きます。他人の記事に答えはあまり落ちていません。たまに落ちていたりするのですが、それは本当に稀です。

 

だから、無理してやれ読者のためにだとかやれスターをもらうためにだとかやってる人はそれこそ勝手だし、とても良いことだと思いますけど、それらが自分の為のテキストになっているかと振り返ってみるとどうも怪しい気がします。というか、僕は単純にそう感じました。僕が感じただけなのでほかの人のことは知りません。

 

僕はそんなことを気にするよりも自分の為だけにテキストを書いたほうがいいと思います。そしてそんな人たちの集合体で、何かが芽生えれば良いんじゃないかな。僕はそういうところに意味を見つけます。もちろん期待というのはゼロで、いきましょう。期待は重苦しいので。

 

日本は自己犠牲が美徳とされる国だという考えが抜けていないという記事をどこかで見たけれど、それを叫ぶこと自体が自己犠牲になっていたら、果たしてどうだろうか。意味があるものに意味が消え、意味が消えたものが意味を成し始める中、彼らは何を思うのか。

 

「そこ」なんです。その苦悶の間なんです。雲と雲の隙間の青空のようなもんです。僕は「そこ」に美しさを見いだしていきたいです。