くうちゅうくらげ

-A Boys Named No.28-

大団円への期待。

僕のスタンスではこの世のすべては平等に価値が“無い”ので、弱いとか強いとか関係ないです。運転中に10トントラックが突っ込んできたら、プロレスやボクシングの世界チャンピオンでもたぶん死にます。まあその点だけが平等だと思います。世の中の真実は今のところ、生まれたらいつか死ぬってことだけです。

 

子孫はある程度意図しないと作れないけれど、努力しなくても死にます。というか努力しなければ死にます。ここで云う努力っていうのは、勉強がんばるとか仕事がんばるとかじゃなくて、メシ食うとかうんこするとかです。

 

メシを食う努力しなければ、死ぬと思います。僕はメシを食わないで死のうと思ったことはないのでなんともいえませんが、メシを食わないと、ものすごく苦しむと思います。だから現代のJAPANにおいて、ご飯あるのにあえて食わずに餓死を選ぶというのは、僕からしてみれば「ものすごく強い」です。そこに弱さは微塵も見つかりません。僕にはたぶん無理です。

極論ですけど、そういう意味も踏まえたら生きることはほぼ自分の意志です。

 

世の中はというと、生きる為の道具はそんなに見つからないけど、死ぬ為の道具はそこらじゅうにたくさんあります。「豆腐の角に頭ぶつけて死ね」とはよくいったものでありますが、ものすごく頭使えば豆腐の角ですら凶器になると思います。

生きたいけど死んでしまった人もたくさんいれば、死にたいけど生きてしまっている人もたくさんいると思います。

 

生きている人はというと、メシを食うのが当たり前です。それをはじめとした「当たり前」の生ける要素がたくさんあればあるほど、「おまえそんなんでほんとに生きてんの」というよくわからない理論が出てきます。

 

たとえば「行きたい企業もねえくせに大学にいってるやつ」とかです。

これは僕が高卒で就職して当時大学生になったクソ共に常々送りつけてやった言葉だったんですけど、これは今になって思えば若さでしかありません。

 

なぜならば僕は生きている途中で思ったからです。仕事とか趣味とか名誉とかあんま意味ねえということに。「今の仕事が楽しくない」とかどうでもいいってことに。

 

世の中にはいろいろな人がいます。豪邸を持っていなければ生きる実感がしない人もいれば、メシを食えるだけですんごい幸せな人もいると思います。豪邸が欲しければ、お金がなきゃだめです。メシを食うだけなら、ここではある程度イージーです。コンビニや給食で廃棄処分がたくさん出ているだろうし。

 

僕はそういう風に考えているうちに、なんだか持てば持つほど生きづらくなるような気がしました。たとえば結婚したら奥さん守らなきゃいけないし、子供出来たら子供守らなくちゃいけないし。財産持ったら手放したくないし、友達を持ったら気を遣わなくちゃいけないし。

 

だから僕は「メシ食ってるだけで幸せ」だと思えるように、自分の意志を構築しようと心がけました。そうしたらたぶん、バイトで月に15万円くらい稼げれば余裕で満足だからです。だけど、結論から云うと、それは無理でした。

 

要は論理的に云えば、世の中で自分の「意識的な」幸せを増やすためには、目の前の「当たり前」を当然のように破壊していくことが必要だということなんだと思います。

「仕事もらえてれば幸せ」「メシ食えてれば幸せ」「恋人がいるだけ幸せ」「家族がいるだけ幸せ」とかそういう類のもんです。そしてそれらを「当たり前」だと思わないことです。

 

云うだけはとても簡単です。だけど無理。

 

なんだろう、こういうのはたぶん経験を以てしないと無理な気がします。

たとえば3年くらいアフリカの最貧困地区とかで暮らして、メシ食えるのは3日に一度くらいで、しかもそのメシもジャガイモ1個とかにならないと「やっとメシにありつけた」とか心の底から思えないんじゃないか。毎日住民の数人がゲリラに殺される中で、息を潜めて毎日暮らさないと、「本当に生きている意味」みたいなのは実感できないんじゃないか。そういう類のもの。

 

だけどそんなの勘弁です。いくら僕が生きたいからといって、そんないつ死ぬかもわからないような状況で生きるのなんていやです。

 

だけど、案外ここも似たようなもんだと思いました。死のパーセンテージは低いものの、わりと多くの「死ぬはずじゃなかった」人が毎日死んでます。次に自分の番がきてもおかしくないです。だけど自覚的に自分の順番はものすごく先のような気がします。これで明日とかに死んだら笑えますが。

 

「仕事もらえてれば幸せ」なのか?「メシ食えてれば幸せ」なのか?「恋人がいるだけ幸せ」なのか?「家族がいるだけ幸せ」なのか?

これだけの多くのチャンスがあった僕が今まで幸せってもんをどうも掴めないのは、ただ単純にそれだけ恵まれていたってことなんだと思います。

 

だけど、恵まれていることが幸せなのかというとそうではないのではないかということが結論です。ふつうなことや当たり前にできることが多ければ多いほど生きやすくなるのかというと、そうではないからです。

 

これはもう、足に障害のある人は「ふつうに歩ける」それだけで幸せなことなのに、ふつうの人はというと歩くの当たり前なのと同じです。歩くのふつうなら走るのふつうです。だけど、走るのふつうならふつうにウサイン・ボルトになれるのかというとそうではありません。

 

なぜならばボルトはふつうではないからです。だけどボルトにとってはたぶん速いのがふつうなんで、ちょっと遅くなっただけで凄く絶望すると思います。多くの人はふつうに走れる人とボルトの間にいる人です。

 

100メートル10秒で走るライオンに追いかけられたら、ボルトを含めた数人しか生き残れません。走ることに限定すれば、彼らは「強い」です。年収5000万以下の人は即死とか云う魔法かけられたら、金持ち数人の人しか生き残れません。それなら金持ちは「強い」です。

 まあ、100メートル10秒で走るライオンに追いかけられることを前提に走るの速くなるひとなんてたぶんいません。そういうのを何故か前提にしちゃって知らないうちに足が速くなっている人のことを天才っていいます。馬鹿と天才は紙一重ってやつです。

 

だけどトラックが突っ込めばボルトも金持ちも天才も例外なく死ぬでしょう。

そう考えると強い弱いとかは関係なくなります。いや、ほんとそこのところだけは平等です。なので、生きることは非情であり、死ぬことも非情です。

 

そんな意味を踏まえて、僕は生きていることに感謝したいと思います。だけどそれに感謝する方法を知らないので、たびたび「死にてえのお」と思います。そんなことを繰り返しながらたぶん僕は生きて、たぶん例外なく死にます。この記事を読んでくれている人も例外なくそのうち死にます。

 

死に方はそれぞれでしょう。事故かもしれないし、病気かもしれないし、自殺かもしれないし、老衰かもしれない。

 

だけど例外無く死ぬって以上は、やっぱり死に方より生き方だと思います。すべて平等に価値が“ない”というスタンスを持つからこそ、そう思います。自覚的にメシを食って生きている以上、僕は僕なりの生き方を探しながら闘っていくことでしょう。

 

カレーが美味い。だから生きていることは幸せだ。今はこの程度でいいです。そのうち、俺の凄く可愛い恋人が作るカレーは美味い。だから生きていることは幸せだ。とか思えたら大団円です。

 

結局最後まで何が云いたいのか全くわからずに小学生の作文みたいになってしまったのは、いつものことです。