くうちゅうくらげ

-A Boys Named No.28-

旅先に置いてきた話。

素知らぬ街、盛岡で白昼の繁華街を歩いていた。ふいに横道に逸れたくなったので、僕は人知れず風俗街の更に奥の道まで歩いた。

 

そこには、家もなさそうな、とにかく風呂にも入っていなそうな老婆が座禅を組んでいた。目は開いている。

 

老婆の前にはサラダを和える時に使うようなボウルが置いてあって、その中にはコインや小銭が入っていた。コインや小銭の量はお台場のヴィーナスフォートの泉の方が絶対に多いだろうというくらい、微量だった。

 

わりと昔の話になるのだが、カンボジアの繁華街を歩いたときも、このような老婆がいた。だがカンボジアの経済事情と、ここ日本の経済事情は違う。カンボジアでは僕らが「こんくらいあげてやってもいいかな」というくらいの小銭でも、あわや大金になってしまうかもしれない。しかし、ここは日本だ。こんなに人通りの少ない場所でただ座禅を組んでいるだけでは、一食にすらありつけないだろう。

 

僕は考えながら素通りした。老婆は何の為に座禅を組んでいるのか。露店のようなものは近くに存在しないし、胡散臭い占いの看板も見当たらない。僕は不思議に思い、引き返して老婆を少し観察してみたが、やはり座禅を組んでなにかうわごとのようなことを呻いているだけで、何かをしているとは到底思えない。

 

このまままた素通りするのも何かなと思い、僕はそのとき持っていた小銭、総額でたぶん100円程度をボウルに投げ込んだ。正直、金を投げ込んだ瞬間にいきなり立ち上がって、何か曲芸をしてくれるのかもしれないという、無駄な下心があったのも確かだ。だが、老婆は僕の期待を大きく裏切り、むしろボウルに金を投げ込んだことにすら気付いていない様子だった。更に云うなれば、目の前の僕の存在にすら気付いていないであろう。

 

僕は、老婆から少し離れた先にあったすでに閉まっている玩具屋の前に座って、老婆と同じ目線の方向を眺めてみた。

 

そこに鳥が飛んでいた。

東京では見ることのできない鳥だということはわかった。海鳥、山鳥の類だろうか。詳しくないのでわからないが、とにかくその鳥は、気流に乗ったり下ったりしている。ふわりふわりと、浮かんでは昇って、を繰り返している。

 

勝手な思いこみかもしれないが、老婆は「これを見ろ」と僕に云いたかったのではないか。僕だけじゃない、通りかかる人の全てに、これを云いたかったのではないか。そして、僕以外に老婆のボウルに金を投げた人間は、どれくらいの数、この鳥の存在に気付いたのだろう。

 

帰り道、すでに東京駅に戻り、疲れ果てた僕は近所の駅に向かうバスの中でうたた寝をしてしまった。

 

うたた寝の中、ずいぶんと自分に都合の良い神が語りかけてきた。

 

『こんばんは。』『私は神だ。私はおまえが生まれる前からおまえを見てきた。』『私は消えない。これまでも、これからも。』『おまえに問う。消えたいと思ったことは?』『死にたいと思ったことは?』『幾度?』『そうか。』『それは死にたくなるようなことだったのか?』『おまえの哀しみはほんとうに悲しかったのか。おまえの寂しさはほんものだったのか。』『おまえに喜びはあったか。』『その風景は?』『では悲しみや寂しさの景色は?』『なぜ喜びや楽しみは確実なものなのに、それらは明確ではないのだ。』『おまえは独りで良い。』『おまえも独りで良いし、そのほかの万物も独りで良い。』『言葉はただのイメージだ、そしてそのイメージが世界を作る。』『鳥も海も水も空も、おまえを笑わない。』『だから、笑え。』『笑えばおまえを見るおまえが少し良い思いをする。おまえを見る他も同様。』『そうだ。』『笑え。』『そうだ、それだ。』『大丈夫、私はいつでもおまえと共にある。』『ほかのものにも私がいる。そして彼らと共にある。』『おまえにはおまえがいる。それでいい。ほかのものにも自分がある。それでいいのだ。』『そうだ。笑え。』『おまえの言葉イメージになり、そして宇宙になる。世界は、すぐに自由になる。世界の自由はおまえ次第なのだよ。』『世界は一つになる。血も肉も恋も愛も涙も死も生も一つになる。おまえはただ、それをイメージするだけでいい。』

 

「鳥がただ何の意味もなく空を飛ぶだけのように、僕も…。」

 

そう云いかけた時には消えてしまった。そして「僕はどうして生きているんだろう」と不意に不思議と不安な気持ちになってしまって、人知れず涙を流した。誰かが隣にいたら、きっとずっとその手を握りしめていてもおかしくはなかったはずだが、こういうときに限って隣はおろか、バス全体にすら僕以外はいないということに気付いた。そして、その直後に、空を見上げた。真っ暗でほとんど何も見えないけれど、今一羽の鳥が電線から隣の電線へと飛び乗った。その涙は哀しみにしては少々温かすぎると思った。

 

鳥がいた。

何の答えもなく、何の理由もなく。

ただ、そこに名前も知らない鳥がいた。

空と雲の上を、下を、流されるままに、そして流されず。

 

「どこまでも独りだ」そう思って、涙をふいて、何事もなかったかのように都会の雑踏を通り抜けた。ネオンを水の中で見るような景色は、幾ばくか美しかった。

 

「いい年して泣くなよ、クズ虫」頭の後ろで僕と同じようにどこまでも独りだった、そして僕の大好きだった人が云う。そしてどこまでも独りな僕は、どこまでも独りのまま、なにがしかと繋がってゆく。

 

鳥がいた。

神がいた。

老婆がいた。

僕がいた。

何の答えもなく、何の理由もなく。

涙と海の上を、下を、流されるままに、そして流されず。

どこまでも独りで。