くうちゅうくらげ

-A Boys Named No.28-

僕が居るべき場所に僕は居ない、僕が居たはずの場所に僕は居ない、僕が居たい場所に僕は居ない、そしてどこにでも僕は居る。

みなさんこんばんは。この記事がこんばんはの時間に投下されるかはわかりませんが、そう書いておきます。

 

このブログはなんだか知らないけど見ている人がいます。その中にはたまたま検索したら出てきちゃった人とか、無駄に気になってくれた人とか、僕自身が気になったので“お返しに”来てる人もいるかもしれません。読んでいるかどうかもわからなければ、まして“理解できているかどうか”なんて微塵もわかりません。まして、この記事を含めたたくさんの僕のテキストは僕自身が理解できていません。

 

僕はみなさんにとって、とても瑣末なものです。どのくらい瑣末かというと、明日僕の脳みそが破裂したとしても誰も気付かないくらい瑣末で、とんでもなく希薄なものです。それと同時にみなさんも僕にとっては瑣末で希薄なものです。なぜならばほとんどの他人は他人にとってはとても瑣末なものだからです。

 

僕は誰かのために何かを書くことをしません。なぜならば、誰かのために何かを書く人が嫌いだからです。僕は誰かのために何かをするなんてことは基本的には不可能だと思っています。毎度書いているように、自分のためにしたことが“たまたまその人のためになってしまった”というケースは確かに大いにあるとは思います。なぜそう思うのかというと、人は、というか僕以外の人のことは相変わらずわからないけれど、とにかく“人は”根本的には自分のことを考えていると思うからです。これは僕の個人的な好悪な問題であるだけで、他の人のことを否定しているわけではありません。

 

そう書いておきながら実際のところはわかりません。生まれながら他人のことしか考えてない人もいるかもしれません。ですが僕は他の人の人生を生きたことがないので、その人に取って代わって考えを主張したりするわけには参りませんので、僕はこう思いました、という感想程度にとどめておきたいと思います。責めるのも責められるのもどうせ嫌だしね。

 

そんな僕が今日は「みなさんこんばんは」という書き始めをしました。根本的に“誰のためにも書いていない文章”が“みなさん”という始まりになるのはおかしな話だと思います。しかし“みなさん”がいったい誰なのかわからない以上は、これは誰のために書いているものでもありません。特定の人に特定のメッセージを与えたいわけでも、それをもらいたいわけではないからです。

 

僕は瑣末なものだと書きました。僕自身が瑣末なものであるならば、僕の言葉は瑣末以下の存在です。存在しているのかどうかすら怪しいものと心得ます。なのでここで僕が仮にどれだけ素晴らしいことを書いたとしてもどれだけ下衆なことを書いたとしても、瑣末なものなんです。素晴らしいことも下衆すぎることも書いているつもりはないので仮に、の話ですが。

 

では、何故瑣末な僕が何かを書いているのかというと、その具体的なことはわかりません。“それっぽいこと”は過去に散々考えたり書いたりしているので、ここでわざわざ云うことでもないです。

 

僕は人生において「何がしたいの?」と聞かれたことが多々あります。男にも女にも聞かれたことがあります。これからも聞かれるかもしれません。答えはいつだって「よくわからん」です。もしかしたら医学的な分析をしてもらえたら“それっぽい”答えは出てくるのかもしれないですが。

 

そもそもなんで生きているのかの理由すらもわからないのに、行動の一つ一つにだけ理由が出てくるとしたらそれはそれでとても不思議なものだと思います。不思議と云うか不可解と云っても差し支えないと思います。

 

しかし人は確固たる理由に裏づけされて動きます。それを自覚しているか自覚していないかは無関係です。腹が減ったら食うのですが、食うのにも理由がありますし、眠るのにも理由が存在します。細かく砕けばそれらの理由の全てが、生きる理由に繋がるのかもしれません。理解するしないはまた別問題だと思います。

 

考えれば考えるほどに、僕の存在理由は実に希薄で、とても瑣末なものです。しかし、瑣末なものであるにも関わらず、考えれば考えるほどに僕の“中のほう”は肥大化していくのです。

 

ビルから飛び降りたら「ああ、あれは死んだね」ってわりとあっけなく死ぬと思います。そうしたら僕は僕からただの死体になります。死に方によっては、少しの間は世間が騒ぐのかもしれません。しかしそのやり方がどうあれ、僕は“今日死んだx人のうちの1つの死体”になります。認識としては僕は僕ではなくなります。

 

「で?」「それで?」

 

そうです。これは「それで?」っていう話です。「だから?」っていう話なのです。

 

僕はこの“先”の話をいつまで経っても続けられないでいます。なので、いつまでもこの周りや前後や左右や上下をうろうろしながら、たまに触ってみてはすぐに逃亡します。

 

食事の最期にはデザートが出てきます。デザートがいかに美味しかったとしても、楽しかった会話の時間はデザートによって終わります。その会話とデザートが最期になるなんて誰が予想できるんですか?誰が僕の大事な人を奪うんですか?何故“みなさん”は大切な人を失うのですか?それともやはり“みなさん”は存在しなくて、“みなさん”はただの“僕のかたまり”だったんですか?