くうちゅうくらげ

-A Boys Named No.28-

「優しさ」って何です?

そこには、様々な人が蠢いていました。
優しい人、悲しい人、おかしい人、明るい人、さみしい人、etc。

人生はそんなに毎日楽しいはずがないので、四六時中楽しそうにしている人は不思議でした。
四六時中鬱々としている人は、俺のそれより深いものを抱えていそうで不思議でした。
親身に応えてくれる人もたくさんいましたが、不思議でした。

俺はそんな人たちを通して、様々な景色をその人の後ろに見ることができました。
今はただただ、それに感謝するのみです。

だけど、また来る日まで、さようなら。

同じような苦しみを抱えながら人生を彷徨っている人と、哀しみを謳歌できなかったのはなぜだろう。
自分を好きでいてくれる人を裏切る理由はどこに。

ただ、俺はリアルタイムが日々突きつけられるのが、恐ろしかったんです。
リアルタイムが本当に恐ろしい。

俺は、今まで抱えていた思いというものを、なにがしかの熱中(仕事や趣味や深酒)で知らず知らずに解消してきました。
間違った方法ではあったかもしれないけれど、毎日重くのしかかるような「しにてー」から、なんとか楽しい未来を想像しつつ、「さあ今日もがんばろう」と「しにてー」を繰り返して、深夜の海を、ただひたすら漂いながら。

さてそろそろ暖まろう、暖まっても良いだろう、と突然寄ったかがり火が、俺には暖かすぎたのかもしれません。

“楽しいことを何故やめるのかがわからない”思考だったはずの人間が、それとはあからさまに翻って自ら楽しい事をあきらめているように見えるのは、楽しいことをする犠牲を多く払ってきたことに対する、贖罪を求めてるからなのかもしれません。
それと相反して同時に“楽しいことは無意識のうちに続き、やめることなどできない”ということも考えるのです。
あれだけ多くの精神的ダメージを負ったにも関わらず、俺はピアノを弾き続けているし、君とも離れようともしない。

じゃあ逆に云えば、やめてしまったことは全て“本来は楽しくなかった”ものなのでしょうか。
俺の“ここにはいちゃいけない”思考は一体、何処から生まれ、何処に消えていくのでしょうか。
ああ、ここもそうか…。

ある日、軽く溜まった鬱憤をうだうだと話していたら、友達は俺の肩を叩きながら「いいじゃないか、いいじゃないか」と云うばかりでした。
「お前が醜悪でもいいじゃないか、お前がダメでもいいじゃないか、お前がクズでもいいじゃないか」なんていう、行き過ぎた「いいじゃないか」は「お前なんてどうでもいいじゃないか」という事に接続する気がしてですね。
そう考えると自分はつくづくと醜い人間だと気付くわけです。

かつて自分のことを「お前そんなんじゃダメじゃないか」と叱咤してくれる友もいたのですが、その人は俺が「いいじゃないか、これで」って胸を張って思うことに対しても「お前、そんなんじゃダメじゃないか」と云い出すような人だったので、それはそれでタチが悪いなーと思っていたことがあります。
それを暴力的に制圧された時には、そりゃもう。

そのまま自分に立ち返ってみるに、じゃあ俺は他人にどういう風に接してきたかというと、どう考えても「別にいいんじゃねーの」と云い続けてきたような気がして、昨日は本当に死ぬほどに哀しかったのです。
たとえばその人が叫んだ「ここにいたくない」に対して「別にいいんじゃねーの」と云い、本当にいなくなったら、「自分には何も出来なかった」と思うものでして。
俺が他人に対して「お前に何がわかってるの」と云っていたと同時に、そう思われていた可能性が多々あるということです。
そして、その繰り返しに疲れて、哀しくなって、何もしたくなくなって、自我を消したるような要因はここにあるのかもしれません。

それでも俺はこのままでいいじゃないか、という自分の横で、ダメに決まってるじゃないか、もう一人の自分が云い出すので、収拾がつかないです。

せっかく人間に戻れたと思ったのに、それで俺はまたくらげに逆戻り。

つまり今この場で改めて表現させてもらうと自分は際限なく“わがまま”です。
そしてその“わがまま”は、今日も明日も俺をひたすら哀しくさせる予定です。

人に優しくってなんだよ、優しくもしてなかったし、優しくもされないよ。