くうちゅうくらげ

-A Boys Named No.28-

私闘「孤独との対峙」

今日はいつになくタイトルが非常に仰々しいのだが、僕の人生自体、それこそが孤独との対峙そのものなのである。
しかし仮に、もしそれらのすべてをわかって欲しいと望んだとしたら「自伝でも書くんですか?」というくらいの勢いで幼少期から書き綴らなければならない問題なのであって、万が一それをするとしても、今の僕には早すぎる気がしてならない。

とはいえ、断片を綴るだけであれば、それは現在の貴重なメモになるだろう。


実は、書くことに対して少し嫌気がさしてきて、しばらく休もうと思っていた。
今こうして書いているということは、結論から云うと、そうはいかなかったということである。

もう何ヶ月もの間「気付いたら文章が書けちゃってました」という“聖域”めいていた時期はとっくに過ぎ去り、考えなければ文章を構成できなくなったからでもあるのだが、まずこの間、過去の記事を見返すにつけて、たとえば“自分について”を遠い目線から難しい言葉を使って記すとなると、どうも他人行儀がして更に偉そうで頭にきた。
僕は僕の何を知っているというのだろう?
自身を、もう一人の自身から見る、そのやり方を唐突に嫌悪してしまった。
もちろん、他人の“それ”を見ている分には良い。
だが、自分がそうするとなると…。

継続するということが力になるかといえば、そうではないと思えた。
しかし、ふと、長年継続していることあるとしたら、書くことだけであるように感じた。
誰の得にもなりはしなかったものの、僕はやめていない。
そう、それこそ公開するしないは別として、毎日何かしらの事を書いている。
何故やめていないのかといえば、それは正直定かではないし、暇だからなのかもしれない。
ただ現在の気分的な状態かもしれない。
もしくは何かにしがみついていなければ落下してしまうからかもしれない。

僕にも意地がある。
自分の生き様や傷を今まで曝け出してきたのだから、ここに来てそれをわざわざ隠す必要もなかろう。
そもそも僕は世界の誰一人から見向きをされなくなっても構わないと思っているからこそ。
もう僕にとって文章と云うものは良し悪しでもなく、善悪でもなく、もはや美徳ですらないのだからこそ。


今までずっと書くのを忘れていたが、僕は決して哀しみの比べっこをしているんじゃない。
ここに度々列挙している「哀しみ」という名のパレードが、せめて天国のマザー・ファッキン・テレサ辺りに届けば良いとは思うが、結局せいぜい身近な他人か、もしくは未来の僕か(僕からすれば結局は他人だ)にしか届かないんだろうし。

そもそも、それはそのまま負の螺旋でしょう?
負ってなんですか、ということは今日は置き去りにしておくとして。
明日になったら「お前が楽しいなんて、本気で云ってる?ハッハッハ」ともう一人の僕が云うのですよ?
その場所が、楽しくあれるはずはない。
愉しくはあれるだろうが、まあ結局は、哀しみとの戯れである。

抗体を作るには良いだろう。
これ以上の哀しみはない!と思えるほどの絶望を体験するたびに、僕はそう感じてきた。
だが、それは一瞬にして奪われる性質のものでもある。
二人に慣れると、また独りでいることが辛くなるものだ。

だから言葉は毒だと毎度のように云っている。
今日の僕の言葉は、明日の僕を苦しめる。


ある日から僕は、友人を失った失望感に感けて、割と安住できていた場所があった。
Twitter」というその場所だ。
そして、今はそれをもうすっかりやめてしまった。
何はともあれ、突然、僕の生活の中から「w」が消えた。
僕はそのことに対して少しの寂しさを感じると思っていたが、自分でも驚くほど「これほど悦ばしいことが今までにあっただろうか」と思えるくらい心は静謐さを増した。
裏を返せば、僕は心底“むかついていた”という事になるのだろう。
何故“むかついていた”のか、ということについて考察することは、明日からの僕に任せるとしよう。

その“安住”は、僕の中に淀んでいた、様々なものの彩りを失わせてしまった。
特に何が変わったわけではないし、具体的なことが起きたわけではないから、単純に疲弊ということになるのかもしれないけど。
しかしそれは覚悟していたし、わかりきっていた事でもあった。

自身にとっての“それ”は群集に紛れ込む為の試練であったと僕は解釈している。
いつの日からか、僕が蔑ろにしてきた亡霊の群れが、僕を溺死させようとしているのではないかと思うことが度々あった。
最愛の友達を亡くしたことも相まって、そのたびに愚かしく酒に逃避していた。
ならばこの試練に耐えうることは、そのまま僕の浄化と贖罪になるのだろうか。

結局、それには失敗した。
そして失敗した理由を説明するには、複雑を極めると思っていた。
だが今になって思えば、簡単なことだった。

僕が叶えたいものは贖罪なんかじゃなかった。
それは建前上の話であって、実態はそうじゃなかった。
その“信仰”に対して、殉教者ぶっているほうが、いささか楽だし格好がつくからそうしているだけで、実際は明らかに違った。

僕は孤独を守りたいだけだった。
そして、ただそれを失いたくないだけ。

僕にとって、人々の云うところ“幸せ”は絶望そのものであった。

僕は「孤独を守りたい」がために、あからさまにペテンぶった。
僕は僕ではなかった。
哀しみを説明することも、解釈してもらう努力も一切しなかった。
誰かが僕に干渉してくる―そうしたらまた一つ、僕は行動理由を他者に説明できるように、捏造していかなければならない。
言葉で返すしかないのだ。

しかしそれに気が付いたときには、もはや僕にとっての問題は如何に捏造できるかという其処ではなく、インクがなくなったらどうしようかということであった。
万策尽きたその時に、僕の孤独は遂にランブルされてしまうのだろう。
そして僕はそれを心から怖れた。

赤の他人にいとも簡単に僕が守り続けていた孤独を懐柔されてしまう―それは端的には敗北を意味する。
そして、敗北するということは、そのまま生きる意味を失うということなのである。


他人から「お前は生きていても、そうでなくても変わらない」と云われた事は幾度かあったし、思われた事は何度もあっただろう。

だが、僕は僕にとって非常に大事な役割を果たしていたし、僕は僕を享受するほかない。
ジーザスも仏陀も僕を救いはしない。
僕を救うのは僕。
だから死ぬときも僕が決める。
僕の孤独は僕が守る。


道化は道化であり続けなければならないし、レジスタンスはレジスタンスであり続けなければならない。
僕はせめて僕の道しるべくらいにはなければならない。

だが、それはいつまで続くのか?

僕はそれを“友”に、僕では知りえないまた一種の答えが出ることを、期待して止まないのである。
もちろん僕は僕で、“それ”を探す。

今の僕に唯一云えることがあるとしたら、
「僕はあるたったひとつのものを手に入れる代わりに、ほとんど総てのものを失い、遂に自らで自らをランブルし、其処から這い上がってくるかもしれない」
と云うことである。

それはきっと僕が小さい頃からずっと心底欲しがって必要としていたであろう、“ラブ”だよ、マイ・フレンド。

やっと叶うんだよ。
僕は遂に、あそこまで辿り着くんだ。
長い長い旅だったんだ。