くうちゅうくらげ

-A Boys Named No.28-

はてなスターは「交換」なのか?

無駄にクソ長いテキストになりそうです。

最近は僕のクソみたいなテキストにも、間違っちゃって20そこそこのはてなスターをつけてもらっていて、無駄に貧乏精神が働く僕は「自分の記事を見てくれてる人のとこくらい訪問しよう」とかやってました。

ですけど、僕みたいな卑屈な人間にとってみると、はてなスターが付いてても「こいつこの記事本当に読んでんのかな」と思う節があります。(自分のテキストだけではなく、他人のテキストについているスターとか見ててもそう思う)

当然、しっかりと見ている方には至極失礼なことだと承知していますが、なんとなくそう思ってしまうというか、勝手にそう思っていました。

もちろん僕自身はクソみたいなテキストにスターとかくれることには感謝しているわけでもありますけど。

なぜかって、中には60とか80とかついてる人とか良く見るわけなんですけど、60とか80ものブログとか見にいけないと思ったからです。
まあ少なくとも訪問はしたとしても、1日のうちに60~80ものテキストを見に行って、「こいつにはこんな日々があるんだなあ」とか「この考えは素晴らしいですね」とか思うのは無理があるんじゃないかと。
これ、僕みたいなクソ暇な人間ですら厳しいんで(1日1時間ネットに繋げばいいほうだからなんとも云えないが)ふつうに仕事してる人とかは結構無理があるんじゃないのと思いました。
これ仮に何かの間違いで僕の記事とかに300スターとかついたら、20そこそこですら厳しい僕はさすがに300全ては訪問できませんし、更に訪問した上で文章を咀嚼するとか絶対に無理だと思います。

そんな中で、ほとんどの人が「私」の記事をちゃんと見てるのかというと物凄く怪しいんじゃないかと思っていました。
たぶん作業的な“お返し”みたいな感じでスターとか付けてる人の方が多そうな気がしました。
僕も一定数そうしてたんですけど、作業的に訪問して☆付けるだけなら楽なんですよ。
とりあえず自分の記事の☆をクリックして飛んだ場所の記事の最後尾まで飛んでちょんちょんとクリックすればいいだけですから。

もちろん人それぞれ好みのタイプってあるんで「今日wwうはww授業で怒られたww」とかいうなんの知性の欠片も感じられない記事から「神を見つけるにはこうしたら良いのです」とかいうお前はどこの教祖かと突っ込みたくなるような記事までたくさんあるなかで、そのどれが好きかは人それぞれです。
まあ両方好きな人もいるかもしんないし、両方嫌いな人もいるかもしんない。
極端な話「他の人が書くものとかどうでもよくて俺のが一番」とか思ってる人もそんなに少なくないかもしんない。

そんなことを個々に考えてる烏合の衆が1つのテキストにスターをつけるじゃないですか。
んで、書き主がそんな烏合の衆のテキストを見に行った時、書いている人すべての記事が「自分にとって、素晴らしい、もしくは役に立つ」ものかというと、お世辞にも全てそうだとは考えづらい。
たぶん「すごく感動させてもらって…いいね!」の人もいれば「なんかものすごくどうでもいいね!」の人もいます。
「でもなんとなく、スターとか貰ったから読んでねえけど返しましょう」多分そういう“お返し”って絶対ある。
そして、そういう営為そのものにうんざりするときがよくあります。
なぜうんざりするかというと、僕が今日からいきなり「私は全知全能の神であり、様々な試練を受け入れたお陰で強くなりました 全知全能の神になるなら☆コチラ☆」とか「うっはwwwwついにやってきましたwwwwおちんちん怪人ですwwww」とか書き始めても、僕がそれなりに“お返し”とかしておけば、なんかまあそれなりに“お返し”としてスターとかもらえそうだからです。


ちょっと珍しく結論からストレートに書きますと「僕の記事がクソだと思ったり、読んでねえならスターとかいらねえし、僕だって読んでねえ記事とかにスターとか入れるつもりはねえけど、逆に良いと思ったらスターつけますよ。そしてそれに“お返し”なんていりません」って話なだけなんですが。

そもそもなんでこんな自意識過剰なことを書いているのかといいますと、それは僕が自分で勝手に文章というものを美意識レベルまで発展させてしまったからです。

とまあ、こればかりは特に文句でもなく愚痴でもないです。
ただ思ったことを書くだけです。
僕をはじめとした自意識過剰な愚か者たちのために、です。

たとえば、僕はというと今でも言葉の中に一定の美しさというのを求めていて、たまに人様の日記を覗くという行為はたまたま落ちていたラブレターを拾っちゃって読んでしまうという行為に近いです。
なので、僕が好きな記事というのはどちらかというと発表用に用意されたそれではなくて、授業中に自分のノートに誰も見られないように書いた落書き程度のものということになります。

まあこれも僕の性格の悪さに起因していると思うのですが、このラブレターや落書きは、僕の視点からすればわりと美しいものです。
ブログの良いところは、時間と場所を選ばずにそのラブレターがたまに拾えちゃうということだと思ってます。
しかも書いている人はクラスの誰かではなくて、名前も顔も年齢も知らない、いろいろな人です。
この距離間も元来引きこもり体質の僕からすれば、適度な距離間と云えるでしょう。
人が見る前提で書くものと、人が見ない前提で書くものはかなりの距離があると思っています。
更に文章が無駄に美意識レベルまでに高まっている、僕をはじめとした自意識過剰な愚か者たちはまんべんなくそうなんじゃないかと勝手に思っています。

でまあ、僕自身そういう人間だからと云うのが大きいとは思いますが、人が見ない前提で書いているほうの記事の方が好きなわけです。
なぜならば、そっちのほうがその人の背景が見えやすいからです。
なのでブログには親切心はあまりないほうが良いとも云えます。
妄想しやすいとも云う。
まあ書いている内容云々よりも、後ろの景色を楽しむ人間なのでそうなだけなのかもしれません。

「勝手に文章を美意識レベルまで発展させてしまった」と書きましたが、まあ具体的に云えば「俺の書いたものは特別」って思いこんじゃってるということです。
例を挙げれば他でもない僕なんですが、自覚するしないはともかくとして、こんなものは文体にいくらでも出るんで、他にもたくさんいると思います。

だからこそ、気に入らないものも多くなってくるという話です。
まず始めに、文章の中に入れるにあたって、あまり赦したくないものがあります。
まず(笑)だとか、顔文字だとか、☆だとか、。。。が続くやつとかそういうやつです。
wとかそういうのはもってのほかです。

「生きるか死ぬか、それが問題である☆」と「生きるか死ぬか(^^;) それが問題ある(*^_^*)」と「生きるか死ぬか。。。それが問題である(笑)」
この3つは、文章こそ同じですが、与える印象が違うという点では、全くの別物だと思います。
まあちょっと文章自体がバカにしているんでアレなんですが、なんか親切すぎるんですよ。
これ鬱陶しすぎるほどに親切すぎる。
まあ善意が出すぎてるんです。
僕はそれをあまり好まない。

それと、僕がもっとも嫌う言葉に「ドヤ顔」や「ぶっちゃけ」とか「リア充」とかそういう言葉も入ってくる。
これもう中学生高校生が使うのはまだ良いにしても、いい年したおっさんとかが云うのはもう吐き気がする。
これ、言葉に一定の美しさを求めている人はそう思うような気がするんですけど、「ドヤ顔」そもそも何なんでしょうかね。
どういう意味なのかすらもわからない言葉を殊更に文章内で使う必要性っていうのがよくわからない。
まあ会話とかで出てくる分にはわかるんですが、これが文章の中に出てくるっていうのは本当によくわからない。
で、それらが平気で出てくるものというのは、僕の勝手な基準の中では、確かにブログの記事ではありますが、文章ではないです。
ラブレターに「ドヤ顔してるリア充たちが驚くほどぶっちゃけお前のこと好きなんよ」なんて書く人たぶんいません。
でも肝心の自分はというとなんでそういう言葉が嫌いなのかもよくわからない。

だからこそ、僕がそういうことを思うと同時に、その逆ってのも絶対に発生しているはずなんです。
日常的にそういう形の「軽い」ものが好きな人とかは僕の記事とかくそくらえと思ってるに違いないんですよ。
そもそも自分のことしか語ってないし、無駄に長いし、他人のこととか考えてないし、なにより卑屈っぽいから。
だからこそ、最初の方であげた60~80くらいブログ書く人がいたらストライクとボールがあってかなり当然のことであって、なんら驚くことじゃないです。
だけどスターは何故か無駄に行き交っている。

ちょっと話が脱線しましたが、こういうのってたぶんいわゆるフェイスファッキンブックなんかで良く見る「いいね!」みたいなもんだと思いました。
あれも僕は「その景色、もの凄く綺麗でいいね!」と「お前のネイルとかめちゃくちゃどうでもいいね!」じゃかなりの差異があると勝手に思ってるんですが、まあ同じ「いいね!」に境目はないような人も多い気もします。
でまあ僕がフェイスファッキンブックとか凄く嫌いなのは、そこまで考えていない愚か者が大半だと思うからです。
じゃあ僕は愚か者じゃないかといったら、たぶんそんな愚か者以上の愚か者なのは言及するまでもないのですが。
関係ないですがツイッターが嫌いな理由は、知人や友人や共通の趣味の人との日常的な会話の中に居場所とか無駄に見つけちゃって、孤独になりきれずにその代わりに「本当の孤独」みたいなものが蓄積されていくからです。
でもまあただ人に相手にされたいだけならツイッターは良いと思います。
僕の場合はたとえば頭がすっからかんになってテキスト書けなくなるとか、曲が描けなくなるとか、そういうくだらないものがとても嫌だったんです。
だからそういう意味でもあっちでも更新こっちでも更新みたいな人は純粋にすげえなあと思います。
「おまえなにになりたいの誰になにをそんなに伝えたいのそもそもそのパワーはどっからでてくるの」みたいな。
金になってるなら話は別ですけど。

これはいわゆる一般論ではないということは自覚しています。
だけど、なんで僕がそういうこと思うかというと、それはたぶん小さな頃から無駄に抱えてきたコンプレックスだとかに起因するものだと思います。
というか最近コンプレックスの記事多くないか。

と、思い始めるとキリがなくなってきて、じゃあ自分が共感したり感動したりした記事にだけスターをつければいいんではないでしょうか、ということになってくるので、つまりは今日のはそういうテキストです。

僕だって特に気に入ったものにはコメントとか残そうとも思いますが、まあ僕の場合は「私は神を見つけました でもまだ生きづらいのです」という記事に「そういうときはちんちんのことでも考えればいいのですよ」とか何の悪気も意図もなく書いちゃいそうなのでそれはそれで無駄に怖い。

 

なんかねえ、凄く無駄に申し訳ねえなあと思ったんですよ。

クソみたいな文章でもない文章と、凄く考えさせてくれた文章が、同じはてなスター3つとかそういうのが。

だから僕はそういうのやめようと思いました。

これからは興味のないものに無駄にスターとかつけたり、ただの営為として見に行くのとかやめる。
もうとっくにやめてる人とかもたくさんいると思う。
自分が好きなもの、自分が見たいものがそういうものに圧殺されるのがうんざりだから。
個人的にたぶん生き辛さってそういうところから出てくると思うから。

まあ、結局はてなスターは「交換」じゃねえよってことを云いたかっただけです。
少なくとも僕の中では。
だから僕のテキストを見てない人はスターとか残さないでいいです。
僕があなたのテキストにスターを残していたとしても、です。
そのかわり、僕があなたのテキストになんの感心も持たなかったらスターとか残しませんがな。
なんでこんなこと書いてるかというと、その方が自分が楽だからです。
だってそもそもそういうなんかちょっとおかしい善意から解放されたくてフェイスファッキンブックとかツイッターとかミクティとかやらずにブログに逃げてきたわけだし。

僕の好きな言葉。
どっかの国の乾杯の文句なんかに「Champagne for my real friends,Real pain for my sham friends(本当の友達にはシャンペインを 愚かな友達にはリアルペイン(本当の痛み)を)」という言葉があります。
まあつまりはそういうことで、僕の記事を本気で読んでくれる人には本物の感謝というかそういうのを無駄にしたいと思いますし、くだらない営為の延長だったらいらねえってことです。

だから僕は営為抜きに誰かしらに何がしかに「美しい」んじゃないかと思われる文章を書きたい。
まあ美しいかどうかなんて、ただの基準です。
で、基準は誰が作るかというと、人様が作ります。
んで人様の中には自分も含まれるんで、自分がそれを「美しいんじゃないか」と感じられたらそれで良いような気もします。
自己満足だけで満足できる人間になれたらなれたで多分それはそれで「美しい」のではないかと。

たくさん読まれている文章がすばらしいものかと云われたら、そんなこともありませんし、逆も然り。
「役に立つ」という部分ではそうなのかもしれませんが、「役に立つ」ということですら既に基準です。
でまあ僕が生きる上で「役に立つ」というものというのは、ただの落書きだったりラブレターだったりするだけの話です。

かつてブログの閉鎖についての記事なんかを書きましたけど(このへん)、誰も見ない、もしくは相手がいるのかいないのかわかんないものをずっと書き続けるというのは、非常に難解なことだと思っています。
まあ僕も含めて、そういう人はただ自分に酔っちゃってるだけの人かもしれないですけど、僕はそれこそ美しいものだと思ってます。
なぜならば、最終的に自分の足を支えるのは、「こんなにPCに詳しい俺」じゃなくて「あの頃は、あの子のことが好きだった俺」だと思うからです。
こういう風に考えるのも、僕に大きなコンプレックスがあるという前提ということでしょうし、なんとも云えないんですけどね。

僕は僕で、こっちの記事にスター返ってこなくてもid:mikanpaさんの記事とか昔から尊敬しててこれからも見ることにはかわりねえし、たぶんこの人いなかったらブログとか続けてねえと思うし、そんな感じでこれからも好きなテキスト書く人のとこは勝手にブクマに入れて勝手に見に行くけどな。
少なくともこのブログって世界は勝手に目に入ってくるものじゃなくて、自分で足を運ばないと見ることができない世界だからだ。
テキストはただの材料で、それを間に挟んで「その人自体」に興味を持つ。
んで「その人自体」に興味を持ったら他人じゃねえよなと勝手に迷惑なことを思いながら、だけど僕はそれが本来の在り方だと勝手に思ってる。
というか、今までそう勝手に思っていたことをまたさらに思っていくというただの意思表明。
そしてこれすらも結局はいつも通りの自分語りなわけだ。