くうちゅうくらげ

-A Boys Named No.28-

否定と、批判と、美しさ。

また今日もクソ長くなりそうです。

 

昨日はどちらかというと「批判している」という自覚を持たないまま、知らず知らずに自分の卑屈さを無駄にいかんなく発揮して「批判してることになってた」っていう感覚だったんですが、ちょっと今日は「ボカロってクソですね」という無駄に敵を自分から作りにいくような、批判中の批判みたいな記事を書こうとしてました。

ただまあ先に昨日の記事に言及しておきたいと思ったんで、それはまた今度。

 

僕のことを無駄に聖人だと思っちゃってる人はさすがにいないとは思いますけど、念のために先に云っておきますが、批判とか好きです。

ただ最低限のプライドはあるんで「~という理由でこういうものは嫌いであり、~という理由でこういうものが好きである」という最低限の言及はしているつもりです。

「クソだからクソです、なぜならばクソだからです」なんて書き方は絶対にしていないつもり。

だってそんなの何処にも説得力のないただの愚痴じゃないですか。

まあ確かに「AさんはブスなのでBさんは美人である」みたいな、否定から入る文章ってそんなに気分の良いものではないですよね。

「Bさんは美人である」ということだけ書けばそれだけで良いような気もする。

なので「Aさんはブスである」ということをわざわざ書くということは、性格の悪さとかそういうことに尽きると思います。

ただどうして書くのかというと、それはたぶんむしろ「Bさんは美人」という題目よりも「Aさんがブス」というものを書きたかったからということになってもおかしくない、というかそうなんだと思いました。

昨日はそこのところをイコール美しさに結びつける人もいるもんだな、ということを自覚した次第です。

で、自覚したからそこを直すかというとそれは全く別の話であり、僕はこれからも否定するものは否定すると思います。

なので否定されて気に入らなければ、否定されたことを批判すればいいと思います。

そこからはじめて「そんな考え方もあるんだなあ」という気持ちになれるからです。

「否定ってクソですね、なぜならばクソだからです」ということでは、何の説明にもなっちゃいないので。

まあどうせ「批判する僕を批判する」ということならトラバとかで精一杯批判してくれるとそれはそれで有難かったんですが、そうも贅沢云ってられないでしょう。

 

そこから「批判することは美しいのか」という議論に勝手に入っていくわけですけど、批判すること自体に美しさなんて微塵もないですよ。

でもその先にはあるんですよ。

「批判した先」には絶対にある。

「僕はAというものが嫌いという代わりにBというものがとても好きになりました」というものが。

例を挙げれば、人殺しちゃった人とかです。

確かに人を殺すこと自体には美しさとか微塵もないですよ。

ただ、人を殺すことを題材にしたマフィア映画とかの中にも美しさってのは絶対にあって、人殺した主人公は人殺したという一点においてもうどんなことしても美しくねえのかというと、そんなことはねえんじゃないかなあと思うからです。

その人が、とある女性のこと愛するかもしんない。

でも「人を殺してしまった」という一点において「とある女性のことを愛する」という行為すらもなかったかのように否定されるのだとしたら、そいつのその感受性ってやつは軽薄すぎる気がします。

僕はというとティーンエイジの頃に「ゴッド・ファーザー」とか観て凄く美しさを感じましたし、あれだけ評価されてるってことは、たぶん他にも美しさを感じてる人がたくさんいるんだと思います。

もちろんだから人殺しを擁護するとかそういうのとはまた別の話ですよ。

 

んで昨日のテキストの要点というか、最終的に何を云いたかったかというと、要はテキストをSNS程度の類のくだらねえものとして認識して欲しくないし、認識したくもねえっていうただの個人的願望でしかないんですよね。

僕はそのSNSって奴が嫌いで重苦しくて逃げてきたんだから、尚更なんですよ。

んで、はてなスターっていうのがもしかしたらその「SNS的な」一端を担っているような気がしたので、異常な嫌悪感を持ったというだけのことに過ぎないです。

だからそういう意味でも、馴れ馴れしいのが取り柄の「SNS的な」ものから逸脱して批判がきたっていうのはある意味、喜ばしいことでもあるんです。

 

で、実際問題は、ブログを「SNS的なものとして」使う人だって当然いるわけで、僕はそれを否定しているわけじゃありませんし、それはそれでいいんじゃねえかなあというスタンスではあるんですが、「SNS的なものを嫌う人間」の立場としての意見くらいは述べておかなくちゃならない。

「おまえいいよ、おまえはそれでいいんだよ」は「おまえのことなんてどうでもいいよ」って云ってるのと同じことだって何度も自分で云ってきたわけですから。

でもまあそうしたらそうしたらで「SNS的なものとして」認識している人々にとっては「なにいってんだこいつ」以外のなにものでもないわけです。

それならそれで、そういうものとして認識している立場としての意見を述べていけばいいわけですよ。

「それは何故なのか」ということまで踏まえて。

んで、そこには双方からの否定とか批判も当然出てくるわけです。

そして、否定したからには当然否定されることも考慮しなきゃならない。

言葉ってのは諸刃の刃みたいなものですから。

 

だけど僕は「誰も何も否定しない生き方」みたいなものがあるならば、これすげー皮肉交じりで知りたいもんですよ。

いったいどんな環境で育ってくればそう思えるの、っていう。

凄いじゃないですか、どいつもこいつも受け入れられるみたいなそういう姿勢。

それって「否定しない生き方」を否定されるということも受け入れられるとかそういう屁理屈の次元でも通用するものなのかな。

でもそうなるとマタニティとか杖の老婆とかがシルバーシートの若者に「席譲ってくだせえ」とか云って、それを「断る」とかいった若者とかも「否定しない、理解する」ってことになるよね。

でも善意の人々は若者のほうを絶対否定すると思うんですよ。

もちろん僕が若者のほうを擁護するか老婆のほうを擁護するかはまた別の話ですけど、少なくとも若者のほうの立場にならなくちゃならんよね、その若者がヘルニアとか持ってて、立ってられないかもしんないしね。

それともなんだ人間ってのは生まれながらにして「よりよく生きるべき」で、その「よりよく」の部分を守れないのはクソなんですか。

たとえば「よりよく」とかってのも、人によっては「他人の考えを否定しない」ってことも含まれてくると思うんだけど。

それっていったいどんな聖人ですか。

それはマザーテレサですか。

マザーテレサ精神は僕にはなかったものですし、これからも欲しいともまったく思わないものでもありますから。

「僕のことを好いてくれる人のことはみんな好き」とか思えるほどハッピーな人生過ごしてきてないんですよ。

んで僕が「美しい」と思うものの一つとしては、たとえばそんなクズ人間だったとしても、否定したり批判されたりしながらもがいて生きていく姿ってのがあるわけですよ。

万人に優しい人が美しいなんてこれっぽっちも思わないですから。

というようなものはただの水掛け論なのですが、こういうことを書いたせいで誰も見に来なくなったとしたら、そのときは僕のほうから「誰も見に来ないのでクソですね」とは云えないということになってくるというだけの話です。

 

僕は「どんな立場にもなれる」っていう器用な人間を信用していないんですよね。

「どこにでもいられる」人ってのは「どこにもいねえ」ってことなんだと思ってるんですよ。

だからもちろん否定するときは否定する。

それは自分の居場所を守るための抵抗であるからです。

それに否定がなければ肯定はないですし、肯定がなければ否定なんてものもないと思っているので。

 

こんなの当たり前のことだと思うんですよ。

ある日突然、なんか偉そうなハゲオヤジとかが家に来て「あなたには、この家を出ていってもらうことになりました」とか云ってきたら、すげえ勢いで断りますよ。

少なくとも「じゃあせめて納得いく答えをくださいよ」って話になるじゃないですか。

「だってお前家賃払ってないじゃん」とか云われたらどうしようもないけど、理由も特になにもなかったら誰だって怒るでしょ。

そりゃAK-47とか持ったゲリラが家の中に入ってきて「出てけ」とか云われたらすげえ勢いで逃げるけど、逃げたとしてもふざけんなくらいには思うでしょ。

「争いごとはいやですね」とかいうくだらないプライドの上で「ゲリラにも家が必要だったんですねえ」とか仏頂面しながらそう思えんのか。

「仕方ないですね」くらいで自分の住み家とか故郷とか捨てられる「優しさ」ってなんだそれ。

なんだその「優しさ」ってやつ。

それって本当に優しさなのか。

 

そういう意味でも自分と違う意見を受け入れるっていうのは難しいことだと思っているんですよ。

動物だって自分の縄張りに勝手に進入してきたら凄い勢いで怒るじゃないですか。

んで、挙げ句の果てには闘争とか始めて死ぬじゃないですか。

死ぬほど大事なもんなんですよ、居場所ってのは。

そりゃ遠いサバンナのライオン同士の縄張り争いとか知ったこっちゃないですけど、そのライオンがチーターであるところの自分の縄張りまで侵害してきたら怒るじゃないですか。

いやまあ怒ったところで僕がチーターじゃなくてシマウマだったら一目散に逃げるかもしんないけど。

でも、逃げた先が食料とか無い場所だったらどっちにしても死ぬしかないよね。

奪う方の側からすると、死ぬ気で奪ってくるかというと案外そうでもないし。

必死で抵抗する姿を見て嘲笑する人だっているかもしんない。

でも奪われるのいやだったら「あいつあんなボロ家がいいんだって」とか笑われたって守るしかないでしょ。

だって逃げた先に水がなくて死ぬのわかってるんだったら、水のあるボロ家の方がいいんだから。

だからせめてシマウマみたいな人生を生きるよりは、チーターくらいにはなってたほうがいいよねえ。

人間でいうところの金とか力だよねえそういうのってたぶん。

でも人ってそういうところが動物と違うところじゃないですか。

わざわざ殺し合わなくったって、話し合いだったり金だったりである程度は解決できるんですから。

 

美しさの話に戻るけど。

じゃあ、

居場所を奪うライオンには美しさはないの?

居場所を奪われることに抵抗するチーターには美しさはないの?

居場所を追われて一目散に逃げるシマウマに美しさはないの?

居場所を奪うことに成功したライオンの美しさだって絶対あるし、居場所を奪われて食われてしまったチーターにだって絶対美しさはあるし、逃げ延びたシマウマがそのまま餓死したってきっと美しさはあるんですよ。

美しさとかってそういう話じゃないですか。

そんで美しさの裏には当然醜さってのもあるんですよ。

それは逃げ遅れたシマウマに対して醜いと思うのか、居場所を奪ったライオンに対して醜いと思うのかは人それぞれじゃないですか。

ただ「ライオン」っていうだけの一点で「あの顔が嫌い」とかいう理由でその行動全てを否定する人だってきっといるんですけど。

 

世の中には、わりとたくさんのチーターになりきれなかったシマウマとかが生きてるんですよ。

毎日ライオンに追われてるシマウマもいれば、滅多にライオンに会うこともないシマウマだっている。

毎日ライオンに追われてるシマウマはというと、たった1日ライオンに追われないだけで凄い安らぎを見つけるのかもしんない。

滅多にライオンに会うことのないシマウマは、たった1日ライオンに追われるだけでめちゃくちゃ怖いのかもしんない。

だけどライオンに会わないと、追われる怖さってのは理解できないはずなんですよ。

だから安全なオアシスの方から追われるシマウマとか見て「あのシマウマは大変ですねえ」とかいうのはてんでおかしな話なんですよ。

オアシスから見てるだけで「あのシマウマも生きづらいんですよね」とかわかっちゃう「優しさ」ってなんなんですか。

 

でもだからといって、自分からライオンの縄張りに侵入して勝手に追われて「俺逃げるのつらいっすよ だからお前も逃げてつらい思いしろ」なんていうのもいったいどんなオナニーだよそれ、そんなの完全に自己責任じゃないですか。

 

オアシスにいる方はいる方でそれだけで満足してるんだから、別にわざわざ追われる必要性もないんですよ。

だけど追われる方は散々な妬みと僻み根性を以てして「オアシスにいるほうはいいよなあ」とか思うじゃないですか。

オアシスにいるシマウマに「追われるお前の気持ちもわかるぜ」とか云われたって、めちゃくちゃ信じられないですよ。

じゃあ代われよって、そんなこといったって、代わってくれるわけじゃないんだから。

 

だったらもう「追われること」自体は受け入れるしかないじゃん。

んでどうせ追われるんだったら追われることに美しさを感じたいって思ったって、なんの恥でもないと僕は思うんですよ。

ライオンたちは、美しさとかどうでもいいから死ねよとか思ってるよ。

 

ただ、肝心の部分はというと追われていること自体が妄想だったり、ただの影だったりしてる場合もあるんです。

ただそれを受け入れられないという、どうしようもないほどくだらない話。

「こっちは安全だよ」とか云われたのに、どうも信じられなくて勝手に逃げて勝手に辛い思いしてるだけだったりする。

 

だからそういう意味も全部含めて「追われてること自体が美しくない」ということならもうそればかりはしょうがないですよ。

だけどこの気持ちはせめて「追われてるシマウマ」にとってはすげえ意味あることだと思っているんですよ。

んでそれ自体が「お為ごかし」というんだったらもうしょうがねえですよ。

じゃあお前の「お為ごかし」ってやつを展開してみてくださいよって話です。

 

んで、そんな僕のことは某友人から云わせるところの「弱い人間」とか「かわいそうな人間」になってくる。

だけど、そんなの価値基準でしかないじゃないですか。

誰かに決められるようなことでもない。

で、その基準ってのはほかでもない僕が決める。

僕じゃなければそのときは「あなた」が決める。

 

この様な美しさの論争なんてのはどこにだってあって、それは本の中にあるのかもしんない。

アニメとか僕は見ないけど、そういうとこにあるのかもしんない。

んでまあ、善い世界の中に美しさを感じる人もいれば、悪い世界の中に美しさを感じる人もいるってだけの話。

青空を美しさにつなげる人もいるし、雨空を美しさにつなげる人もいる。

 

だからこそ、僕は感謝の意を込めて云いたいんです。

たとえばほかの誰かに明らかにバカにされるような他人の「ラブレター」を、僕は美しいと思って読んでいる。

中には、決してリアルでは言い出せないような心の苦痛をテキストという名の叫びとして書き綴る無駄なやつだっている。

「誰のためにもならねえ」無駄なことを。

そしてその「無駄」の中に一瞬の美しさが芽生える。

他人の顔色を伺って、当たり障りのないような「いいね!」で締めくくられる毎日よりも、僕はやっぱり一瞬の美しさってやつを見ていたい。

だから「SNS的な息苦しさ」でそういうのやめて欲しくない。

ただ、それだけの話です。

 

んで上に書いている文章に「美しさ」を感じるかどうかなんて、それは僕の価値基準じゃないですよ。

見る人が「美しい」と思うならそういうことになってくるし、「醜悪だ」と思うのならそういうことになってくる。

「美しさ」なんて狙っていくものじゃないんですよ。

僕がみた「美しい世界」とあなたがみた「美しい世界」の距離が近くても、遠くても別にどうだっていいんです。

でも「近い」人は少なくともいるわけじゃないですか。

僕が他人のテキストとか見てそういう風に思うことがあるように。

 

んで、僕の立場はというと、結局どうにもならないんですけどね。

納豆好きな人と嫌いな人が議論したって、何にもならないんで、それと同じです。

ちなみに僕は納豆とか世界で一番嫌いな食い物なんですけど、かあちゃんとかすげえ好きなんで、なんかよく喧嘩してた気がします。

んで昨日のテキストも凄く極端な話「俺納豆すげえきらいなんて近くで食うのやめてください」みたいなもんと変わらないんで、そういう意味でもそこに美しさもクソもないよな。

だけどこれ云っておかないと納豆近くで食う人とかいるんですよ。

でも、もう子供じゃないんで納豆近くで食う人とかに愛想笑いして我慢とかする。

それってどんなオナニーですか。

そのオナニー気持ちいいですか。

納豆すげえ嫌いなのに、納豆で囲まれたら不快じゃないですか。

だから「俺は納豆が嫌いだー!」とか叫んでただけ。

なんの大人げもない。

んで僕は大人げもなくそれを叫んじゃったんで、これで納豆好きな人近寄らなくなっても「寂しいですね」とか何も文句云えない。

つまりそういうことです。

たぶんマザーテレサ精神とか持ってる人は、納豆が嫌いなことすら理解できないと思うんですよね。

なんでも食うんで。

必死に納豆が嫌いなことをアピールしても、たぶん伝わらないんですよ。

 

多分一番上手くやるやり方ってのがあって、納豆好きな人は嫌いな人の気持ちをほんのちょっと理解し、その逆は逆のことをすればいいわけです。

で、僕はというとそんな器用な生き方が出来ていたらこんなに生き辛いはずはないんで、やっぱり無理ですねって話に過ぎません。

そりゃ良いか悪いかだったら世間的にはそれは悪いことでしょう。

そして悪いことが美しくないかと云ったら、そんなことはありません。

悪さの中にも美しさはしっかりと存在します。

もうここまで云って何もわからないのなら、絶対にわかり得ません。

 

この話はここでいったんおしまいです。

また何か反応とかあったら無駄に言及するかも。