くうちゅうくらげ

-A Boys Named No.28-

お説教マシーン。

こないだサッカーの練習にいって走り回ったら、体の中のドス黒いものが全部出た気がしたのです。また毒を入れなおすためのデトックスか、疲れるぜ。帰り道すんごい寒かった。暑いと暑いの嫌いだけど寒いと寒いの嫌い。だから結局ぼくは、本当はすんごく暑い日のとっても涼しい部屋と、すんごく寒い日のとっても暖かい部屋が好きなだけなんだなーとおもった。

 

いつも通らない道を通ったら「創業1842年」と堂々と書かれた家の裏の銘店が更地になっていた。少しだけ見通しが良くなった。マンションの裏階段から歩く人の姿が見えたりすると、壊れちまえばこんなもんかなーとかおもった。そんなとき助手席に座るといつも腹を壊す友人のことを思い出した。自然の摂理に人は逆らえない。腹の逆流も同様。フランスに戻ったときのナポレオンも腹を下していたかもしんないし。

 

だけどぼくはたまに思う。自然の摂理で足が空に、地面が頭になっていたとしたら、もしかしたらそれはそれで当たり前なんじゃないかってね。それは小さい頃にぼくがよく考えていたような、たとえば死んだらどうなるの、っていう話の中のひとつに、もし既に死んでいたらどうなのよっていう話だとか、ぼくらはもしかしたら、みんな、すべて、ただのタバコの灰なのかもしれないって。ぼくらの世界がただのタバコの灰なのかも。そんでもう既に死んでいるのかもって。んで、死んで生きてから仕事いった。

 

帰りに途中で寄ったスーパーの警備員が云っていた。「あいているところにおとめくださーい」ぼくが思うに、あいていないところにとめられるわけがないだろばか、ってなったのですよ。気になるのですよ。「バイト募集!やる気があれば経験不問!」って、じゃあ経験があればやる気がなくてもいいのかよってさ。ぼくは自分とそんな話ばっかりしてる。

 

世の中はぼくより頭のいいひとと頭のわるいひとで構成されておりますです。こないだ「てつまさんのこと嫌いなタイプかもしんない」とか誰かに云われたけど、世の中いろんなひとがいるから別にてつまさんのこと嫌いなタイプはたくさんいてもおかしくないとは思います。たばこがすんごい好きなひととすんごい嫌いなひとがいるのと似たようなもんです。ぼくみたいにすんごいニュージーランドに行ってみたい人からすればニュージーランドはすんごい楽しいと思うのですが、別にニュージーランドに行くこと自体すんごい楽しいと思えない人もいるのです。おかしいです。この世界には納豆とかいうふざけた異物をおいしいとかいうキチガイもたくさんいるんです。

 

そう。ぼくがいつも云うように、世の中はいろんなことが起こっていて、いろんな人がいます。

 

エビとかカニも海の中でそんなこと思ってるのかもしんないです。思ってねーよと思った人はエビとかカニがそういうことを思わない理由を証明しなきゃなんないと思うので、証明できない以上は可能性はゼロではないと思うんです。だからぼくはエビとかカニも海の中でそういうこと思ってるんだと思ってます。そもそもそういうのファンタジーっていうと思うんです。案外ファンタジーの世界にいるくせに現実的な人間ばかりなのは何故なのだろうと思うのです。ということをエビとかカニが海の中で思ってるのかもしんないです。あー今年の脱皮だりーとか昨日食われかけたとか身内で話してんのかもしんない。

 

そんなこと考えながら帰宅。今日はいつもより道がすいていて2時間半かかるところ2時間で家に帰れたとか、複雑な造りの駐車場に切り返しなしで一発でいれられたとかそんなことで喜んでいた。そんで、テンゴなのに32000円も負けたあの夜のこともついでに思い出した。4人いたはずだけど、あと1人が思い出せない。後姿以外は。10分後に電話がかかってくる。

 

電話の声によると朝6時に兵庫のセンターに荷物を取りにいってほしいらいい。答えはノー。言葉はイエス。つまりヒーローはいない。いても助けてくれるかはわからない。いい子にしてれば願いは叶うかもしんない。でも確実に云えることは、悪い子の願いは叶わないもんなんだと思う。だから結局早く寝ようと思いながらメタルとか聴いてたり、弾いてたり、わめいたりしてる。あしたはよじだー ぼくはねるよー ふぁっくゆー。

 

ぼくはふぁっくゆーとかけっこう好き。まあわかりやすいじゃん。ファックユーとかヘイトユーとかアイラブユーとか云ってればさ。世の中を取り巻くどんな言葉より親切じゃん。わかりやすくて親切なせいで、間違いすら正しいと思えてきたりするもんだよ。世の中には正しい間違いっていうのも間違った正しさっていうのもあるもんだよ。そんなもんじゃん。でもどれもこれも、あいつもこいつもファックユー。あなたって親切ね。うんうん。

 

悩んだらなんでも相談してきていいからね、と、と、と、ともだちがいった。ぼ、ぼ、ぼ、ぼくはいった。なんかいった。それで終わった。ぼくは勝ったと思った。war is over、彼風に言えば、戦いは終わった。有名な作家のせりふだけどね。そのあとあのひとは云う。あ、あ、あなたの、の、きもちは、は、わかるのよ、って。

 

それじゃあ聞くけど、ぼくの気持ちがわかるの?環八通りを時速100kmで走行中に交差点の200m手前で一番左の車線から車線3つまたいで右折レーンに入って用賀ICに乗るとき死にかけるぼくの気持ちとか、2Lからスタートしたピッチャービール回し飲みでなぜか2.5Lに増えているビールが回ってきたときのぼくの気持ちとか、3日徹夜で運転して気付いたら富士山の五合目に着いていて景色最高ですねえとか思ってたら間に合わなくてめちゃくちゃ怒られたときのぼくの気持ちとかわかるの?わかるはずないじゃん。

 

そのひと云うわけ。云うわけだよ。女に夢を語る男を見ながら、こちとらぜったいあんな、あんなクズにはならない。あんなクズには絶対に、ならない、ってね。ぼくは思うよ、じゃあクズってなんだよって、クズってどこにいるんだよって。そんな風に思うこと自体クズだったりするわけで、でも実際にはクズには程遠いわけで、だからそんなときもとりあえず笑っておけ。正常なふりしてすぐに異常が出るハードディスクみたいにさ。

 

とにかく、あなたはとても真に受けられないようなお世辞をぼくに云って聞かせたんです。しあわせはすばらしいとかぱんつはみずいろがいいとかそういう類のこと。だからぼくは精一杯の感情を込めてあなたに云ってやったんです。「ブラジャーすけてるよ」ってね。まあ気にすんなよ。人生は一瞬だ。だけど一瞬が人生なのだろうか。Let's do this. たまには自分の感情を英語にしてから翻訳ソフトに打ち込んでみるといい。「Did you think I wouldn't notice? Did you really think I wouldn't care?(ぼくが気付かないと思ったのかい?本当に、ぼくが気にもしないなんて思ったのかい?)」大体ぼくの感情は、んま、大体は、文字数オーバーで送信されない。たとえば"a considerate clown, a preachy preaching machine"「思いやりのあるピエロ、お説教、お説教マシーン」だなんてね。いつもどこかでぼくたちの仲を引き裂くものは、ぼくが二度と触れない何かなのです。だからぼくがあなたにしてあげられなかったすべてのことを理由に、ぼくを憎んでくれてもいいのです。

 

そういえば昔々あるところで、誰かに云われた。ぼくはどうにも、自分が傷付いているかどうかわからないので、相手を傷つけているのかがわからないのでは、と。たしか小学校の通信簿かなんかにも「いいこととわるいことのくべつがつかないこですねえ」とかそういう感じのことを書かれたような気もするし、書かれたような気もしない。クラスメイトの女はぼくの目を見て云う。「殴られたことってありますか!」って、女を殴るなんて最低なやつだねって答えた。その翌日にぼくが育てていたプチトマトだけ全く生えていないことに気付いた。数ヶ月後、種を入れ忘れたことに気付いたのだが、恥ずかしいので隣のやつのと名前をすりかえておいた。隣のやつはぼくにこう云う。「きみはどうにも、自分が傷付いているかどうかわからないので、相手を傷つけているのかがわからないのでは」と。人生は錯覚だよ。きみのものだと思っていたものがぼくのものだったときだってあるんだ。特に野菜に関してはね。後日、半田君が拾ってきたエロビデオでその問題は解決した。

 

ぼくの父さんは優秀。優秀だからたくさん女がいたりしたし、エジプトに行きたければエジプトに行ったし、連れて行きたいときにだけ子供たちを連れて「まあまあ優秀なお父さん」と見られたような人。そういう部分は優秀だと思う。いささかサイコだけどサイコーね。父さんは文章、言葉、株の投資の仕方、気持ちいいアレのやり方、そんだけ覚えりゃまあまあ順調だといってた。素晴らしい遺伝子だ。素晴らしい遺伝子はたくさん後世に引き継ぐべきだと思う。そのたくさんの素晴らしい遺伝子がたくさんの浮気でたくさん後世に引き継がれるところもまた素晴らしい。素晴らしさは現在のベクトルでは語りきれない。語りきれないから家にいるフクロウのぬいぐるみに語ってみたら奴が勝手に喋り出す、そういう夢を見た。

 

夢から覚めて一番最初に思ったことは、AというホテルではBという名前を使い、CというホテルではDという名前を使うバカ女の話。あんただれ?あんたばか?本当の嘘ってやつは本当なのか、それとも嘘なのか。嘘の本当ってやつはどうなのか。ま、とりあえず自分の感情は騙しとけ。騙せなくなったらとりあえず騙せ。なんもしなければヒューマンレースで負けることはない。美しければそれでいいって、著名なアーティストだったか著名な作家だったか著名な俳優だったかぼくが云ってた。

 

アレがベンチャーから帰って来るたびに考える。本当にぼくと他人の1時間は同じなのだろうかとか、そういうようなこと。この類の話は有名な作家の本を読んだ田中さんの母親の親戚の孫の友達の知人がある日渋谷駅ですれ違ったぼくの頭の中の話。あの日彼かぼくが渋谷駅に行かなければ、もしくは1分ないし1時間遅れたりしていたら、すれ違ったのだろうか。わかりやすく云うなら、かわいいクラスメイトと廊下でぶつかったのは偶然なのだろうか、今を構成している出会いも単なる偶然では有り得ないのではないかということ。仮に単なる偶然では有り得ないとしても、何かが変わるわけではないけどね。関係性の連続は自分の意思で変わるものなのですよ。始まりは決まらないが終わりは決められるだとか。だけど実際は終わりも決まっているのか、とかまあそんなところ。

 

知りたければまた書くよ。ぼくの前世がどうしてカクレクマノミで、どうやって生きてどうやって死んだのかってところからさ。

 

だらだら書いただけなんだよ。もし理解できなかったら“お散歩ポール”にくくりつけられたビリーって名前のコリー犬の気持ちでも考えてくれればいいよ。