くうちゅうくらげ

-A Boys Named No.28-

Spotty stain of "I'm ok, you're not ok"Yes, men too could be on the rag.

「いつも読んでます」「楽しみにしています」というメッセージを頂いた。
このブログを始めてから約2ヶ月が経過するのだが、職業上などの理由からアウトプットを広げることが出来ているので、見ている人が大幅に増えたのだろうか。
とにかくまがいなりにも「見られている」というのは独特の光悦もありつつ、恐怖感もある。

俺は基本的に洋楽しか聞かない。
それは、どちらかというと洋モノの方が「俺はこう思う、お前はどうだ?」ってスタンスで書かれている曲が多いからだ。
歌詞があればもちろんどこかしらで「押し付け」みたいなものが少なからずあると思う。
アーティストってのはそういうものだと思うからだ。
それで、俺はこの「俺はこう思う、お前はどうだ?」ってスタンスのものの方が好きだ。

邦楽に関していえば、割と「世間はこう思ってるんですよ」っていうテンプレに従って大衆を目当てにしたものが多い。
しかも何故かそれに賛同する人間も多いわけだ。
これはどういうもんか。
とはいえ、「俺がこう思うんだから、お前もこう思え」はビジネス的には全く上手く機能しないと思う。
日本じゃ特にそうなのではないだろうか。
そっち関係に詳しくないので、ただ感性だけでモノ云ってます、って話にしか過ぎないんだけど。

話が逸れてしまったようだが、基本的にこの文章に対して「誰かが得をする」と考えた事は一度もない。
だからこそ「書く」っていうことだと思っている。
話して伝える、となればどうしても押し付けになってしまう、というのがある。
俺は自分の考えを他人に押し付けたいつもりなんて全くないのだ。
だからこそ「みたいやつだけみればいい」「賛同したいやつだけすればいい」ってスタンスでやりたい放題やっている感じだ。

そもそも「書く」ことに対してビジネス的な面を追及したら、俺は何もかけなくなるのだ。
ここはあくまで自分のストレス発散の場所で、誰かに向けたメッセージというものは存在しない。
まあ個人ブログなんてそんなもんだ。

でも誰かが見ていると気付いたいま、俺はそれを踏まえた上で「やりたいようにやる」だけではいけないのではないだろうか、という疑問が出てきた。
だがこの疑問はワリと早い内に解決した。
「見たくなけりゃ、見ないだろ」って話だ。
だってただでさえ、長い。
書いてあることも意味がわからない。(というか俺にしかわからないものが多い)
他の人がこれを見て、「ああそうなのか、そうだ」って思えるようなものは無いに等しい。

だが元々「誰も見ていない」を前提に始めたものなので、今更「誰も見ていない」を把握したとしても俺は続けるのだろうと思う。
なぜなら何度かやめる事を決意しながらもやめなかったからだ。
いや、正確に云えば「やめられなかったから」の方に近いのだが。

自分の意見がハッキリしている、ということに関しては良いことも悪いこともない。
執着するってことは頑固なのと同じ意味だし、柔軟なのは軽いことと同じことだ。
ただ、どちらにしても同じことを思い続けるにはそれなりの努力が必要だ。
何に対しての努力かといえば、「忘れないこと」への努力だ。

たとえば、「友人が死んだこと」「恋人と別れたこと」「仕事がうまくいかないこと」「悩んでいること」まあ何でも良いのだが、そのようなものでも自分でわかっていなければ、絶対に忘れる。

人は程度の差はあれど、「忘れる」というオプションをほとんど身につけているので、「忘れない努力」をしなければその時の感情は忘れるのだ。
絶対に。

だからこそ、俺は何かにつけて「書いて憶えておく、忘れたら読み返す」努力をしているだけに過ぎない。
まさに自分の為の自分ノートだ。
それを公開するということは、どこかしらで言葉の意義、意味、を信じているということに直結してくると思う。
俺は何かを表現するということは抵抗だと思っている。
世の中に対する抵抗だ。
人は黙っていれば忘れ、圧殺される生き物だ。
だからこそ、世界は抵抗するのに事欠かないのではないだろうか。

さて、ちなみに「忘れる」ということが悪いことなのかといえばそれはそうではないと思う。
「忘れる」ことによって前を向けることもあるのだ。

だが俺は自分の人生をただ「憶えている上で乗り越えていく」という判断をしたに違いない。
ただそれだけの話だ。
そうして自分を追い込んでいるにしても、結局は人生は自分に対して間違ったことをしないというのが前提の上の話なのだから、これはこれでいいと思っているし、悪いと思ったらそのときはやめるかもしれない。

今はこれでいい。
だからこれで続けるだけだ。