Will anything ever be good enough for you?Stand on your own, hold your water if you can.
他人が自分に向けて悩みを伝えてきたので、自分には何が出来るのかなって考えたりしてた。
でもそういう場合、実際に解決できるのはその人自身だと思うので、極力手助けはしないことにしている。
時と場合と内容と相手にもよるが。
具体的なことだったら出来る限り肩を持ったりもするものだが、「酒・女・金」の類での他人の揉め事に第三者が無理に入って良いことがあるわけないので、聞き逃すか適当にアドバイスめいたものをするのだが、自分も何が正しいのか全くわかってないので俺に相談しても無駄ですよって事を伝えるわけだ。
もちろん悩みというのは、「悩み」と認識されている時点でほぼ100%解決策っていうものが用意されていると思う。
だが、「実際に起きたこと」に関して、「起きなかったことにする」っていう考えに至るのは非常に難しい。
「何故そうなったのか」を考え、「どうしたらそうならなかったのか」を考えれば大体は解決するものだ。
言葉上はそういうことになっているのだが、それが頭で理解できて即行動できりゃ悩みなんて既にないもんだろう。
他人同士が悩みを相談し合うことに関して、未だに意味があるものなのかどうなのかわからない。
もちろんその人間同士での問題なら話し合うしかないのだが。
所謂「俺の彼女が〜」という相談を俺にされたところで困る。
「俺がお前の彼女に〜をしろってことか?」と説いてもそうではないのだろうと思うし。
まあ極論だけどな。
結果的に自分で解決するしかない問題を他人に相談するということはどういうことなんだろう。
実にこれに関しては昔から疑問なのだ。
というか、それは言葉にされて相手に表現された時点で「悩み」なのだろうか。
それとも「悩み」を種にした与太話の類なのだろうか。
「俺はこれだけxxをしたのに」っていう愚痴でしかないのだろうか。
俺はワリと自分で塞ぎこむ感じだ。
なぜならば、他人に「俺はxxに対してxxの悩みがあるから」って話をして解答が返ってきたとしても、残念なことに素直に受け入れられるほどの器が無い。
「それは違うと思うぞ」と答えるかもしくは「お前に何がわかる」と思うのきっとどっちかだ。
的を射ている解答をされたとしても認めはしないだろう。
だから相談しない。
これじゃ相談された方も迷惑だ、ということがわかっているからだ。
その分、俺は当て所もなくこうしたところに悩みや不安は「書く」ようにしている。
結果的に誰に問うているわけでもないのだ。
自分で自分に言い聞かせるか、もしくは書くことでストレスを発散しているだけのものだろう。
思っていることを一度文章にすれば、なんとなくまとまるような「気がする」からだ。
「気がする」というのは、実際にそれで解決したためしなんてないから。
だから俺がモノを「書く」というのは、その様な悩みなどがはじめて直接「誰か」に話せた時に必要がなくなるのかもしれない。
というよりも絶対にそうだ。
俺が何かを書いていることというのは、やっぱり「自分へ向けた…」という自戒の要素がとても強い。
つまり「無条件にこれが赦される場所」というのを見つけてしまえば、書く必要がなくなるというよりも、書く内容がなくなる。
それは等価交換だ。
「書く」ことをやめて「その場所」を手に入れるか。
「その場所」を手にする事を諦めて「書き続ける」か。
そういう性質のものだろう。
未来のことはよくわからないが、今は「その場所」というものを一度は見てみたい気もする。