くうちゅうくらげ

-A Boys Named No.28-

My life's been what until now?

id:mikanpaさんのブログは1年ほど前から、欠かさず読ませてもらっている。

実はここ半月ほど、あるひとつの議題についてずっと考えているのだ。
セサミストリートのエルモのことではない。

場合によっては朝の10分間について

彼が記述している“一瞬の夢に出会うその30分のためにずっと哀しんでいるのだとしたら”ということについて。

その30分は、どこにあるのか。
家のゴミ置き場にあるのか。
職場のデスクにあるのか。
キミが大事そうにしている本の中にあるのか。
それとも、今日も何気なく昇るどこも暖かくないあの太陽の中にあるのか。
本当は、得体もしれない、自分がこれから触れることもかなわない、その“愛”の中にあるのか。

俺はかつて、確かに文章を書くことに逃避を覚えた。
表向きに云うならば、「これは俺がそのときに感じた気持ちを忘れない為にただただ書き記されたもの」で、云わば俺が隠しておかなくてはならない最大の秘密だったはずのものだ。
自分の為に書くか、他人の為に描くか、それすらも考えたことがない、俺の自己満足絵画。

ただ興味はあった。
俺の後ろにどんな景色が広がり、どんな部屋が映り、どんな夢が見れるのか。

たとえば、この内臓を切り取って誰かのために曝け出したとしよう。
文章にするというものは野暮なものだ。
そうだ、そこに温度や湿度はなく、ただ拡散されていくのみ。
それに何の意味があると云うだろうか。

彼の話をしよう。
仕事をして、疲れる、憂鬱な青年が見つけた、「好ましく思っている」数々のものを、自分に反映してみるとして、どれくらいの物事が共有できるだろうか。
20秒後に、俺は共有できないを知る。
そしてそのことを、俺はとても好ましく思っている。

逆説に逆説を重ねて、言葉にできない想いが駆け巡ったとしよう。
文章というものは本当に野暮なものである。
俺の温度は何処へ行くのだろう。

道化とは良く云ったもので、俺もどうやら子供の頃に嫌った道化というその存在に、いずれなり始めていたのである。
これは俺にとっては悲劇なはずなのだが、今ではとても好ましく思うのだ。

俺は汚い、俺はおかしい。
言葉にしてみたら、とてもきれいに聴こえるだろう。
そしてその色は?

文章が美しいと感じるのは、何も感性が近いからなどのそういう次元の低い話ではない。
生きているから、である。
俺も生きていて、彼も生きているからである。
だからこそ、どこからどう切り取っても彼は俺にとって正しいのだ。
圧倒的に正しい。
そして正しさは常に美しいのである。
だから、それ以外のことは、“どうでもいいことになっている”のだ。

俺は決心し、彼の見つける30分と俺の見つける30分が圧倒的に正しいということを証明してみせることにするのである。
言葉を信じ、言葉を運び、言葉を愛し、そして、それらがすべて、いつでも少しだけ哀しいことを、受け入れるんだ。

そして、狂いそうになるほどの夢を見て、今日も目覚める。

俺も昨日死に、今日また生き返った孤独の中の道化師なのだ。

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