くうちゅうくらげ

-A Boys Named No.28-

他人(ひと)の在り方と自分(おのれ)の在り方。

今日は感性的なそれではなくて、少し考えて具体的なことを書きます。
まあつまり我流に云うなれば、「描く」ではなく「書く」文章です。

いきなりですが、私事から入ろうと思います。
俺がこのブログを更新していない時期(主に8月後半〜9月後半と、10月中頃〜11月中頃)に何をしていたかと云いますと、仕事で忙しかったのももちろんあるのですが、主に前半部分は所謂「リア友」(こういう呼び方はとても好みでないが)と呼ばれる部類の人との会話を楽しみ、後半部分はついったーをしていたのです。
まあ、10月中頃のブログなんて、ほとんど文章になっていないので、書いていないようなものですが。
数ヶ月前に書いたこのへんのエントリを参照するに、一体お前は何をやっているんだ、って感じではあるのですが、まあそれはさておき、先日、某氏のブログを閲覧していて、少し長い間考えていたことが文章にまとめられそうになったので、タイトルどおりのことを書きたいと思ってます。

俺は他人のブログが基本的に好きです。
しかし様々にあるブログの中で、俺が好きなブログというのは、とにかく限られるということに気付きました。
好きを表現するときに嫌いから入るのはとても好きではないのですが、あえてその方式で書いてみたいと思います。

俺が嫌いなもの一例として、
“中身”のない芸能人のエントリ。
時事的なニュースなどを引用して、それについて自分なりの意見を偉そうに(必ずしも悪意を持っているわけではない)語るようなエントリ。
商品の宣伝ヨロシクな記事。
圧倒的にピンポントな趣味しか書いていないエントリ。(好きな趣味の話であってもげんなりしてしまう)

しかし、上記のエントリのもののほうが需要が高いことは当然知っています。
見られたい、と思ったら、てめえのことを書くよりも、万人に通用するor知識となるブログにするべきだと思います。
それでも俺が好きなブログは、唯一無二、「その人のことが書いてあるエントリ」に限るということ、に気付いたのです。

さて、ここまで書いておいて何が云いたいのかというと、俺が好きなものは生きている人の様々な日常ですよ、というのはもちろんそうなのですが、ブログの在り方について少し書きたかったのです。

ええと、昨今は(俺の探し方がいけないのかもしれないが)“その人のブログ”って呼べるブログが少なくなってきたような気がするんです。
もちろんSNSで日記を綴ったりでき、まあわかっている人だけわかってればいいよね、って空間になってきてるのは然り、ですが。

俺としては、人間性というものを、その人の家庭環境や経歴、つまり自分が生きてきた人生を絡めて、拡大しても良いんじゃないか、と思います。
その文章が道義的に、倫理的に、人間的に、仮に間違っていたとしても、です。
思っていることや考えていることを素直に吐き出している文章が好きです。
だから俺は約20KBで書かれた“崇高な”記事よりも(内容によるが)、「あーつかれたしにてー」の一言だけの記事の方が愛情を持てるんです。
凝縮すると「おまえらも自分のことをもっと書けよ」ってことになってしまうのかもしれないのですが、正にそのことが云いたいのかもしれません。

そこで最初の話に戻るのですが、俺はついったーをやってからエントリを書けなくなった理由がわかりました。
俺の友達にも、SNSを始めてからブログを書かなくなった人がたくさんいます。
「あー、俺の文章は、別にブログに書く必要、なかったんだな」ってことです。

じゃあそれを知っていながら、こうしてブログを書く意味ってあるの?って話に回帰するのですが、それはきっと「わかりえないから」だということを感じました。
俺が歩んできた人生を1から相手に説明しないで、何もわかるはずがない。
つまり、“俺のような人間”は、満ちては欠け、を繰り返すだけにしか過ぎません。
仲良くなった、伝えたくなった、相手にはわからない、孤独だ。
その一連の螺旋の哀しさに気付いてしまったのかもしれません。

これこそが本題になってしまうのかもしれませんが、逆にSNSような気軽な形式で“俺、私”を表現できる場所があるのにも関わらず、あえてブログとして“公開”している人は何なのか。
リアルな友達がいなくとも、SNSなどで話せる仲間がいれば、それだけで解消できるはずです。
ブログなんてなくていい、日記なんて書かなくていい、だってそれを共有してくれる人が、周りにいるんですから。
自分が最大限に相手に「わかってもらおう」と思って勇気を出せば、この時代なら誰一人もわかってくれないなんてことはまずありません。

じゃあなんで書くの?

それは、孤独だからなんだと思いました。
「孤独ぶっていただけの“ニセモノ”」と「孤独が解消された“勝者”」はSNSをやっているか、ブログを更新しなくなったか、のどちらかだと思いました。(勝手な憶測です)
それと同時に、自分が一生“敗者”で在り続けるんだということも。
もちろん勝者敗者なんて、俺がそう思うか思わないかでいくらでも変えることができるものなので、この表現には総じて意味などないのですが。

何をしても、満たされない。
友達は作った、でも満たされない。
仕事を始めた、でも満たされない。
家族ができた、でも満たされない。

ですから、俺が好きなブログを書いている方(特に俺のほうから☆を残したり、コメントする方)というのは、総じて孤独な部分があるんじゃないかと。
群集の中に押しつぶされながらも、なんとかして自分を保っていたいと欲する、絶叫のような「消えない、消えたくない」があるんじゃないかと。

俺なりの云い方をさせてもらえば、その絶叫の中には必ず色が宿ります。
そして、俺は、その他者の“色”を見るという行為が、とても好きなんです。

その人たちは、書くことでしか表現できなかったのかもしれません。
もしくは、それが得意なだけだったのかもしれません。

だって(あくまで俺にとってでしかないのかもしれませんが)書くっていう行為は、基本的に面倒ですから。
時間もかかるし、頭も使いますからね。
でも「書かずにいられないから」書いているんだと思います。
そこには「書かずにいられない」理由がそれぞれにあった。
それだけあれば、それだけ良いと思います。
そのスタンスがそれぞれにあるからこそ、俺は圧倒的に正しいのだと思います。

それは書くことだけに限らないと思います。
もしかしたら今日いつもの大きな駅で歌っている売れない歌手も。
道端で売れなそうな絵を描いている画家も。
日々つらつらと、誰にも理解できないようなことを語っているあの小説家も。
同じように、“それ”でしか表現できないものを、持っているからでしょう。

俺は、この自分の存在がいつ消されてもおかしくないような世の中で、あえて“自分(おのれ)”を表現することに執着する、そんな人が好きです。

まあそんなことを、某氏のブログを徒然と読んでいて、感じたのです。
この某氏は、特にそれといったことは書いていませんが、俺はそのそれといったことが書いていない文章がとても好きです。
君が、君である、そんなやり方で。

まあ結果的に、リアルでも、SNSでも、ここ以外では何処にも吐き出すことのできなかった絶叫たるものを、俺なりのやり方で、俺なりにまた叫びはじめたのです。
今となっては過去の自分の陳腐な文章でさえも、それが“絶叫”である限りと、愛しく感じてきた次第です。
そしてこれからも、絶叫を吐き出し続けるのでしょう。
それがたとえ「ア”−」だけであったとしても。

そういえば俺が、みかんぱさん(id:mikanpa)のブログが好きな理由もここにあるのだと思いました。
俺は彼とは話したこともありませんが、彼の文からは、生活や匂いや情景まで、総てが見えるからです。
それは彼が文章を書くのがうまいだけかもしれませんが、たとえば彼が「「リア友」という言葉などは非常に嫌いそうだな」ということまでわかってしまうのです。
彼の絶叫はとても美しいです。
もし、この先、俺の周りにこんな人が増えていけば、関わりなくとも、俺は幸せなのかもしれないと思いました。

物凄い余談になりますが、俺はそんな理由もあって、商業主義の路線を辿る今時のアイドルも、芸能人も、偉い人にも、まったく興味がありません。

ここまで書いて気付いたことがありますが、結局は好き嫌いの話だったんだと思いました。
書くことや伝えることや読むことや伝わることが、好きか、嫌いか。
でもそもそも人生って好き嫌いで構成されるもんじゃないのか。

まあ長くなりましたが、そんな形で、俺はこれからも俺なりのやり方で、このブログを続けていきたいと思っています。

ちゃんとした文章になっているか実に不明ですが、珍しく今夜は素面です。
ところではてなダイアリーが移転すると聞いているのですが、本当ですかね?

誰か新しい「はてなブログ」たるものに招待してください。
合掌。